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epi.08

 ベージュ色の焼き色がついた生地に香り高い紅茶の茶葉が綺麗に散っている。我ながら完璧な仕上がりだと内心で自画自賛しながらサブレを適当な皿に置いて、ついでに冷蔵庫から麦茶のペットボトルとコップも二つ取り出した。両手がふさがったオレに目ざとく気づいたイツキが、売り場と厨房を隔てるドアを開けて手で押さえてくれる。


「そういうとこ気がきくよな。バイト中も思ってたけど」


 イツキの腕の下を少しだけ頭をかがめて通り抜けながら言うと、イツキは小さく笑ってみせた。


「先輩の前でかっこつけたいだけです」

「またそういうことを言う」


 小さなうちの店にはカフェスペースなんてものはないので、オレは面接の時にも使った小さな丸テーブルにイツキと向き合って座った。コップに麦茶を入れて紅茶のサブレを勧める。


「本当はあったかい飲み物の方が合うんだけど」

「いえ。いただきます」


 胸の前で律儀に手を合わせて、イツキがサブレを一枚取った。そのままかじりつくのかと思いきや、天井の明かりに透かすように捧げ持ってじっと見つめたまま動かなくなる。


「なにしてんのおまえ」

「いや、先輩の手作りお菓子だと思うと感慨深くて。食べるのもったいないです」

「いいから食えって。試食なんだからちゃんと味覚えてよ」


 呆れて苦笑いするオレに、イツキはうなずいて小さなサブレを両手で持つと大切そうに口に入れた。両目を閉じて静かに味わったかと思うとため息を吐き出すように言う。


「すごく美味しい……」

「言うと思った」

「違います本当です。バターと紅茶の香りがしてさくさくで本当に美味しいんです」

「分かった分かった」


 テイクアウト専門のうちの店では、お客の感想をリアルタイムで聞ける機会は少ない。ときどきレジで『前買ったアレ、美味しかったわ』と言ってもらえることはあるし、あとはリピートしてくれることこそが感想だと割り切ってはいるけれど、それなりに苦心して焼いたお菓子をこうして目の前で食べてもらえるのはなかなか特別な喜びだ。いつも焼き菓子の仕込みは深夜に一人で黙々とやっていて、その静謐な時間はオレの宝物に違いないけれど、こうしてそばに人がいるのも悪くないなとふと思う。そしてそれが誰でもいいのかと聞かれたらそれは違うなとも。


(イツキといると、心地いい)


 深夜に陥りがちなセンチメンタルといえばそれまでだ。でもなんだかほんわかした気持ちになってしまったオレも、ついでに休憩しようと麦茶のコップを取って喉を潤す。サブレをつまんでぽりぽりとかじっていると、ふと視線を感じて目を上げた。見れば、先にサブレを食べ終えたイツキがテーブルに頬杖をついてオレの顔をじっと見つめている。


「……なにしてんの」

「好きな人の顔を見てます。幸せです」

「げほっ」


 不意打ちで言われて思わずむせた。胸をたたいて急いでコップの麦茶を飲み干し、イツキをにらむ。


「食ってるときに言うな」

「すみませんつい。ああ先輩、口にサブレのかけらが付いてる」

「え、どこ」

「そこじゃないです」


 椅子から腰を上げて身を乗り出したイツキが、手を伸ばしてオレの口元に触れた。かけらを払うように指先を動かされて、くすぐったさにむずむずしたオレは思わず目を閉じる。


「取れた?」

「まだです」


 言いながらイツキの指がオレの唇に触れた。そのまま指先でなぞられて親指ではさまれて小さく揉まれて、オレは薄く目を開ける。


「……イツキ? なにして」

「先輩」


 少しだけかすれたイツキの声が耳に届いた。オレのあごがそっと持ち上げられて、綺麗な顔のアップが近づいてくる。


(え)


 伏せられた長いまつ毛。静かな店内に小さく響く息遣い。ほんの少しだけ香った汗と制汗剤の甘いにおい。お互いの唇が触れるか触れないかのところでイツキが止まる。オレのあごからパッと手を離して体を引いて、椅子ごとひっくり返るんじゃないかと思うような音を立てて勢いよく背もたれに倒れ込んだ。端正な顔が台無しになるほど真っ赤に染まっている。


「せ、先輩」

「うん」

「ごめんなさいオレいま」

「びっくりした。キスされんのかと思った」


 オレが言うと、イツキは「うわあああ」と意味不明な奇声をあげて両手で顔を覆ってしまった。そのままテーブルに突っ伏して動かなくなる。


「イツキ? 生きてる?」

「生きてません」

「キスしたら生き返る? 童話の姫みたいに」

「先輩の意地悪」

「被害者ムーブやめろ」

「ごめんなさい通報しないで」

「通報もなにも未遂じゃん」


 オレが突っ込むと、イツキはテーブルに伏せていた顔をほんの少し上げた。腕の間から目だけを出して、もそもそとくぐもった声を発する。


「先輩。オレね」

「うん」

「好きな人と毎日一緒にいれて本当に幸せです。幸せですけど」

「けど?」

「こう見えてすごい我慢してるんですよ……」

「我慢ってなにを?」

「言わせようとしないで」

「バレてた」

「先輩の意地悪」


 同じセリフをもう一度繰り返して、ううう、とまたひとしきり奇天烈なうなり声を上げてからイツキはガタリと音を立てて椅子から立ち上がった。


「オレ帰ります。サブレごちそうさまでした。信じられないくらい美味しかったです」

「あ、うん。ありがとう。鍵は閉めとくよ」


 そう言ったオレにぺこりと礼儀正しく頭を下げて、イツキは裏口のドアに大股で向かっていく。たたきに座ってスニーカーの紐を結び直して履き、そのまま振り向くことなく出て行った。扉がかすかな金属音を立てて閉まる。


 ひとりになった。


 イツキの残した制汗剤の香りと余韻がまだそのあたりに漂っている気がする。しばらく椅子に腰掛けたままぼうっとしてから、オレは指先で自分の唇にそっと触れた。熱を分けてもらえなかった唇は少しだけカサついていて、椅子の背もたれに背中を預けるとあごを上げてぼんやりと天井を見る。


「……マジかあ……」


 ため息とともに声が漏れ出た。あのイツキの必死な顔を見てなお、彼の恋心を疑える人間がこの世にいるとは思えない。本気で恋をしてるんだ、オレに。そしてそれがもし一時の気の迷いでも、たとえば尊敬とか何か別の感情を徹底的に履き違えた勘違いだったとしても、今この瞬間にイツキがオレを本気で好きだというなら、このまま一生勘違いしてていいのに。ふとそう思った。思ってしまった。


「……リップクリーム買うか……」


 無人の売り場でひとりつぶやく。厨房のオーブンが、まるでオレの言葉に賛成するかのように焼き上がりを知らせるアラームを高らかに鳴り響かせた。

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