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epi.07

「先輩、今朝オレのクラス来ましたよね」

「行ってません」

「なんで嘘つくんですか」


 いくらオレがモヤモヤムカムカしようがバイトの時間はやってくる。洋菓子のことさえ考えていれば幸せだったはずなのに、はなはだ自分らしくない感情の波立ちに腹が立つ。だから今日はすべての元凶たるイツキの顔を見ずに厨房に引きこもって無心にお菓子と向き合いたい気分だったのに、こんな日にかぎって母さんが「今日は雨だから製造おさえたいの。トウマあなたもイツキ君と一緒に販売とお掃除お願い」とか言ってくる。


 あからさまな不満顔になるオレに母さんは「明日はデコレーションケーキの飾りつけ任せてあげるから」となだめるように付け足した。オレがそれで機嫌を直すと思っているのだ。まあそれは正解なんだけど、今日のオレの不満の原因は厨房に入れないことじゃなくてイツキと一緒にいなければならないことだから、その気遣いは残念ながら少しずれている。


「ノート。ありがとうございました」

「なんのことでしょうか」

「なんでさっきから敬語? 怖いんですけど」


 徹底して目を合わさずに壁際のディスプレイをハタキでばさばさ叩くオレのあとを、イツキがずっとついてくる。一応、口だけじゃなく除菌シートを持った手も動かしているからサボっているわけではないけれど、それにしたって。


「ずいぶんおモテになるようで」


 棘のあるセリフにイツキが掃除の手を止めた。そしてオレはすぐにしまったと思う。なにいきなり当て付けみたいなこと言ってるんだオレは。


「なんでもない。今の忘れて。消せ。記憶から抹消しろ」

「もしかして、オレがクラスの女子と話してるの見てたんですか?」

「ちがいます」

「だからなんで敬語。先輩ウソ下手ですね」


 鼻から息が抜けるような変な音が聞こえて横を向くと、イツキが肩を震わせながら笑いをこらえている。オレはカッとなって怒鳴りつけた。


「なにがおかしいんだよ笑うな!」

「おかしいんじゃないです。嬉しいんです」


 顔を赤くして怒るオレにそう言って、イツキは晴れやかな笑顔で言葉を続けた。


「オレ今日はケーキ買って帰ります。もちろんここの」

「は? ケーキ? なんで」

「先輩がオレに嫉妬してくれた記念日だからです」

「そんなわけないだろ自惚れんな」

「照れてます?」

「照れてません」

「抱きしめたいんですけどいいですか?」

「いいわけねえだろバイト中だぞ」

「バイト中じゃなかったら抱きしめていい?」

「変な解釈するな」


 ことさらに冷たい言葉を返すオレにイツキは「ううう」と変なうなり声を上げた。「先輩のけち」とかいうつぶやきは聞こえなかったふりをする。


「先輩」


 イツキとふたりで壁面の掃除を進めて、店をほぼ一周したところでポツリと呼ばれた。振り返るとイツキがやたらまじめな顔でこちらを見ている。


「オレ、先輩に謝らなきゃいけないことがあるんです」

「なんだよ」


 オレが上の棚からかけたハタキを下にもかけようと膝を折ってしゃがみこむと、合わせるようにイツキも隣にしゃがんできた。内緒話をするように顔を寄せて小声でささやいてくる。


「数学のノートのことなんですけど」

「ああ、おまえがスタッフルームに忘れたやつ」

「あれ、わざとなんです」

「は?」


 オレは声を上げてイツキを見た。すると思いのほか近くにその綺麗な顔のアップがあったので反射的に上半身をのけぞらせて身を引く。イケメンは顔面の圧が強くて困る。


「わざと忘れたってこと? なんでそんな」

「先輩がオレのために教室まで来てくれたらいいなって。ごめんなさい期待しました」


 神妙な顔でうなずいて、イツキはものすごく申し訳なさそうに目を伏せる。


「オレ、先輩と一緒にバイトできて正直すごく浮かれてて。でもあんまりしつこいと嫌われるかもって反省して好きとか言うの控えてたんです」

「控えてたのか」

「はい。でもその反動で、オレがいつも先輩を迎えに行ってるみたいに一度でいいから先輩の方から会いに来てくれたらって思っちゃって」

「……なるほど」

「騙すようなことしてごめんなさい」


 イツキは長身を折りたたむようにして、しゃがんだ体勢のまま頭を下げた。イツキの考えたその健気な作戦は、オレを教室に召喚するところまでは順調だったようだ。オレは黙って立ち上がり窓際の棚に移動すると、除菌シート片手についてくるイツキにぼそりと言った。


「なら悪かったな。ちゃんと手渡しできなくて」


 オレのぶっきらぼうな言葉に、イツキはちぎれて吹き飛ぶんじゃないかってくらい首を横にぶんぶんと振った。


「全然いいです。結果オーライです。直接渡してもらえなかった理由が嫉妬だったなんてご褒美でしかないです。一生擦ります」

「やめろ恥ずかしい」

「恥ずかしがる先輩も好きです」

「やめろ恥ずかしい!」


 オレの怒った顔を見てイツキは黙った。しばらくお互い無言で掃除の手を進めて、やがてオレの方から口を開く。


「イツキ」

「はい」

「またこういうことあった時のために、連絡先交換しときたいんだけど」

「えっ」


 オレの言葉にパッと顔を上げたイツキは、ただでさえでかい目を見開いて驚愕したような声を上げた。


「先輩の連絡先?」

「そう」

「絶対教えてくれないと思ってました」

「おまえの中のオレは鬼悪魔か。必要なら普通に教えるって」


 それを聞いたイツキは心底嬉しそうに目をキラキラさせてうなずいた。「バイト終わってからな」と釘を刺すように言ったオレは、気を抜くと笑いそうになる口元をイツキに見られないように背中を向けてごまかす。朝から抱え込んでいたモヤモヤもムカムカも結局イツキと話しているうちに洗い流したようにきれいに消え去ってしまって、オレはなんだか前よりもスッキリした気持ちで右手に握るハタキを軽快に振った。



 深夜の厨房で、オレはひとり作業台に向かっていた。


 時刻は二十三時すぎ。仕込んでおいた棒状のクッキー生地を冷蔵庫から取り出して台に広げた粒の細かいグラニュー糖の上に丁寧に転がす。砂糖が表面にまぶされたら、今度はナイフで生地を輪切りにカットしていく。整えた厚さはちょうど一センチ。適度な食べごたえを味わえて割れにくいベストな厚みだ。

 朝が早い母さんは二階の自宅でもう眠っている。オレは宿題と風呂を済ませたあと、階段を降りてこの一階の厨房に入った。基本的な焼き菓子の製造を任されて半年、この深夜の時間はオレが厨房を独占してパティシエになれる貴重な数時間だ。


(楽しいなあ)


 マスクの下で鼻歌を歌いながら、カットしたオセロの駒みたいな生地を天板に次々に並べていく。予熱しておいたオーブンに天板をセットしてボタンを押して焼成スタート。作業がひと段落してホッと息をついたところで、不意に厨房の窓が外からコンコンとノックされてオレはびくっと背すじを震わせた。


「え……」


 誰だろう。厨房の電気を付けているから、中に人がいることは外からでも分かるだろうけど心当たりがない。イタズラか、それともなにか音がうるさかっただろうか。ミキサー系などの音の出る機械はこの深夜帯には絶対に使わないようにしているのに。


 金属バットなんてものはここにはないから、一番太い綿棒を選んで武器代わりにつかんだ。こわごわ窓に近づいて思い切って引き戸を開けると、そこにいたのは。


「先輩!」

「イツキ……」


 不審者かそれともクレーマーかと身構えていた体からどっと力が抜けた。キャップをかぶり、窓枠にひじをついて笑顔で手を振るイツキにオレはあきれてため息をつく。


「何してんだよこんな時間に」

「夜の散歩です」


 それはそんなに一般的な趣味なのか。別名徘徊というんじゃないのか。ツッコミたいことは多々あったけれど、先にイツキが話し始める。


「オレ眠れないと時々散歩に出るんですけど、店の前通ったら厨房の窓が明るかったから。もしかしたらって」

「母さんかもしれないだろ」

「オーナーだったら挨拶するだけです。それに二分の一の確率で先輩に会えるならオレは絶対にそちらに賭けます」


 さも当然のようにそう言って、イツキはオレの背後のオーブンに視線を送った。


「いい香り」

「さっき焼けた紅茶のサブレかな。いま冷ましてるとこ」

「先輩、本当に店の焼き菓子作ってるんですね」

「そうだよ。製造許可はこの厨房自体に下りてるから、高校生のオレでも売り物を作る資格があるんだ」


 そう言うとオレは窓から流れ込む夜更けの風を深呼吸するように吸い込んだ。ほのかなぬるさをまとう初夏の空気だ。それからイツキの顔を見て言う。


「暇ならこっち来る?」

「え」

「味見してけば」

「いいんですか」

「いいよ。どうせ明日試食してもらうつもりだったし」


 オレはイツキをうながして、窓を閉めて代わりに裏口の鍵を開ける。ドアを開けて「お邪魔します」と言って入ってきたイツキは、見慣れた制服ではなくTシャツにカーゴパンツのラフな姿だった。スタイルがいい奴はなにを着ても様になるなと感心していたら、イツキが妙に緊張した顔で口を開いてくる。


「あの。オレ先輩のこと好きなんですよ」

「いきなりなに? 知ってるけど」

「そんな奴と夜中に二人きりになっていいんですか」


 オレの後について売り場に入ってきたイツキがまじめな顔でそんなことを言い出したので、オレは吹き出して笑ってしまった。


「やけに大人しいと思ったら。そんなこと心配してたわけ」

「笑いごとじゃないんですよ先輩、もっと危機感を持ってください。男は狼なんだから」

「神聖な店でなにする気だよ。サブレ持ってくるからちょっと待ってな」

「わかりました」


 素直にうなずくイツキを売り場に残して、オレは厨房に入り網の上で冷ましていた紅茶サブレを六枚取った。

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