epi.06
小鳩洋菓子店でイツキがバイトを始めてから二週間が過ぎた。
イツキは面接時の宣言通り、平日は学校の放課後から閉店まで、そして学校が休みの土曜日は開店から閉店までシフトに入った。勤務態度はまじめで熱心。勘が良くてレジ打ちや接客も問題なくこなしていて、オレが隣でつきっきりでいたのは初日の研修の日だけだった。イツキが仕事にすぐに慣れてくれたおかげで、オレはバイトの半分は母さんと厨房に入り、半分はイツキと一緒に販売に入るというリズムを作れるようになった。これにはオレも母さんも正直とても助かっている。
「イツキ君が来てくれて本当に良かったわあ」
母さんはそう言って、生ケーキに余りが出た日はバイト終わりのイツキに箱に入れて持たせたりしている。イツキも喜んでそのおすそ分けを受け取っているし、パートのコバヤシさんはもはや完全にイツキのファンになっているし、イツキが来てからの小鳩洋菓子店は今まで以上に上手く回っているようだった。……オレの胸中のモヤモヤを除いては。
「あれ、忘れ物」
ある日の夜のこと。ボールペンを取ろうと二階の部屋から降りてきてスタッフルームに入ったオレは、テーブルの上に数学のノートが放置されているのに気がついた。表紙の端に『1-1 鷲沢イツキ』とあって、手に取ってめくると最後のページに宿題らしき計算式がイツキの綺麗な字で書かれている。今日は確か一年生だけ教員研修で短縮授業だったはずだから、早めに店に着いたイツキがここで宿題をやっていたんだなとオレは想像した。そしてそのノートを置き忘れて帰ってしまったらしい。
「仕方ない。明日の朝届けてやるか」
無くしたと思って困っているかもしれないから、メッセージくらい送っておこう。そう考えてスマホを取り出したところで、オレはイツキの連絡先を知らないことに気がついた。知り合ってもうすぐ一ヶ月、ほぼ毎日顔を合わせているにも関わらずそもそもイツキから聞かれてもいない。もしオレが誰かを本気で口説き落とそうとしていたら、きっとその手段は外さないだろうと思うのに。
(あいつ、本当にオレのこと好きなのかな)
学校からは結局毎日一緒に帰ってきているし、並んで売り場に立てば手の空いた時にくだらない話で笑い合ったりもする。夕飯も今日までに三回ほど食べにきていて仕事上がりの母さんを喜ばせていた。だけど。
あの初バイトの日以来、イツキはオレに『好き』とか『つきあって』とかいう言葉を投げてこなくなっていた。やっぱりあれはただの気まぐれで、でもバイト自体はケーキももらえるし続けるつもりで、だからオレへの告白はこのまま黙って無かったことにするつもりなんだろうか。そうかもしれない。きっとそうだ。だってそもそもがイレギュラーだったんだから。
(いいんだよな。これで。普通に)
オレは後輩の男に迫られるという悩ましい状況から苦労なく解放されて、ただただ優秀なバイト君だけが残った。なんだ最高の状況じゃないか。最高の。
(なのにこの虚無感はいったい)
今まで洋菓子ひとすじでモテなさすぎたから熱烈に言い寄られたのが実はまんざらでもなくて、だから一方的に逃げられて今さら虚しくなっているんだろうか。最初から何も手に入れていないくせに、まるで失ったような気がして。だとしたらなんとも浅ましく恥ずかしい話じゃないか。
「考えるの、やめよ。オレには向いてない」
誰もいないスタッフルームでひとりつぶやいて、オレは心なしか乱暴にイツキの数学ノートを握る指に力を込めた。
◆
一年生の教室は校舎が違う。イツキのクラスの時間割なんて知らないから、数学の時間が来る前にと親切なオレは翌朝のHR前に一年生の教室が入っている南校舎に向かった。渡り廊下を通って靴箱を抜けて去年まで自分が通っていた校舎に入ると、『1-1』の教室はすぐに見つかる。オレは二年生だけど、それでも赤ネクタイだらけの一年生の教室に来ると視線を感じてなんとなく緊張するから、イツキの奴よく毎日毎日二年の教室にオレを迎えに来れるよなとふと思う。ある意味感心しつつ引き戸から教室の中を覗き込むと、薄いカーテンが降りた窓際に立つイツキの姿はすぐに見つけられた。
(いた)
長身でスタイルがいいせいで何もしていなくても目立つのだ。イツキ、と声を投げようとしたけれど、廊下側のドアから窓までは当然ながら教室ひとつ分の距離がある。ざわつく朝の教室のなか声を届けられる自信がない。こっち見ろよととりあえず目に力を込めて視線を送っていると、イツキの隣にいた男子が誰かに呼ばれたようでふと離れていった。するとそれを待ち構えていたように三人ほどの女子が一人になったイツキを囲むようにして話しかけ始める。当たり前だけれど、クラスの女子に人気があるようだ。
イツキを取り囲む女の子たちはみんなスカートが短くて伸ばした髪が朝の光のなか綺麗に光っている。その中の一人が、イツキに何かを話しかけながら自分の長い髪の一房をつまんで見せるような仕草をした。最近傷んじゃってさ。ちょっとさわってみてよ。遠くて声は聞こえないけれど、そんなセリフが勝手に脳内生成されてアフレコのように当てはめられる。それを聞いたイツキは、少し戸惑うような表情をしながらも指を伸ばして女子の髪に触れた。途端に「キャー」という悲鳴のような歓声のような高い声が、ここだけは現実の音としてオレの耳に響く。
(……あれ)
(なんだこれ)
きっとあるだろうと分かっていても見たくなかった光景を、自分からわざわざ見に来てしまった。そんな心持ちだった。心臓が急にドクドクと音を立てて動き始めて、そのやかましい音が周りに漏れ聞こえてしまうんじゃないかと心配になって胸の上でこぶしを握りしめる。うつむかせた視線の先、自分の上履きのくすんだ汚れが急に目についてなぜだか無性に恥ずかしくなった。
「あの、大丈夫ですか」
声をかけられて我に返ると、赤ネクタイの小柄な女子が心配そうな顔でオレを見ている。教室に入ろうとしていたからきっとイツキのクラスメイトだろう。
「……大丈夫。悪いけどこれ、鷲沢イツキに渡しといてくれるかな」
「え?」
急に言われて驚いたようにまばたきしたその女子に、オレはイツキの数学ノートを差し出した。戸惑いながらも受け取ってくれたので、そのまま黙って足早に一年生の教室を後にする。背後で「鷲沢君のノート預かったの?」「やば。超ラッキーじゃん」「渡してきなよ」とかいうはしゃいだ声が聞こえてきたけれど、振り返る気にもなれなかった。




