epi.05
「閉店時間だから今日は上がっていいよ。おつかれさま」
鳩時計の針が午後六時を指して、小さな仕掛け細工の鳩が六回鳴いて引っ込んだ。ちょうど店内にお客さんが途切れたタイミングでもあったので、オレはイツキに声をかける。
「スタッフルームで着替えたら出るのは裏口から。タイムカード忘れずに切ってね」
スタッフルームは、売り場の脇にある納戸に毛が生えた程度の小さな支度用の部屋だ。オレと母さんは二階の自宅で着替えるからこの部屋を使うのはこれまでパート主婦のコバヤシさんだけだったけれど、そこに今日からイツキも加わることになった。
「先輩は?」
「オレは売り場を片付けて、そのあとは買い出しと夕飯作りかな」
扉の鍵をかけながらオレが何気なく言うと、イツキが「すごい」とつぶやいた。
「先輩、料理もするんですか」
「するよ。母さん忙しいし」
母さんは閉店後はそのまま明日の仕込みに入るから、平日に二階の家で夕飯の支度をするのはオレの役目だ。料理は嫌いじゃないし食べたい献立にできるのも悪くない。そう言うとイツキは感嘆したようなため息をついた。自分の中では当たり前だったことを褒められて、なんだかむずがゆい気持ちになっていたらイツキが口を開く。
「買い出し、オレも行っていいですか」
「え? なんで?」
「先輩と離れがたいだけです」
思わず聞き返すとイツキは真顔でそう言った。それこそ地図の上は北で下は南、というくらい当たり前のことのように。
「でも待たせるよ」
「オレも片付け手伝います」
「だめ。その分はバイト代出ないし、おまえにタダ働きさせたらオレが母さんに叱られる」
それを聞いたイツキはみるみる悲しそうな顔になった。それはまるで冷たい雨のなか捨てられてしまった子犬みたいで、はからずもイツキの背後にそんな哀れな幻覚を見てしまったオレは息をついて言葉を付け足す。
「だから、スタッフルームで待ってな」
「……はい!」
捨てられた犬から拾われた犬に見事に羽化したイツキが、うつむかせていた顔を上げて明るい返事をした。
(なんか、懐いてくるわんこみたい)
そんな失礼な連想をして一人で笑っていたら、タイムカードを切ったイツキに不思議そうな顔をされる。「どうかしましたか」と首をかしげるイツキに「なんでもないよ」と言って、オレは笑いをこらえながら首を振った。
◆
片付けを終えて二階で着替えたオレは、イツキと連れ立って裏口を出た。薄明というのか、夕暮れ時にもかかわらず初夏の空はまだ明るくて淡い夕焼け空がビルの谷間に挟まるように覗いている。駅前にあるスーパーを目指して歩く途中、イツキは弾んだ声で話しかけてきた。
「先輩の隣を歩けるなんて夢みたいです」
「大げさ」
「大げさじゃありません。今日だけで致死量の先輩を浴びて胸が苦しいです」
「致死量の先輩ってなんだよ」
電車が到着するたびに改札口から吐き出される人々の間をぬって進んでいくと、なんだかちらちらと視線を感じる。衆目を集めているのは言うまでもなく隣にいるイツキだ。日々こんなに見られて疲れないのかなと夕日に染まる横顔を見上げたけれど、本人は気にした様子もなく上機嫌な顔で歩いている。今にも鼻歌を歌いだしそうな表情だ。
「先輩なに作るんですか」
「いつも簡単なのばっかだよ。今日はからい気分だから豚キムチ炒めかな。あと味噌汁で野菜とって、米炊くだけ」
「すごいですね。栄養まで考えて」
「適当だよ。でも職人は体が資本だから」
「かっこいいです」
「おだてるじゃん。食いたいの?」
会話の流れで何気なく言ったら「え」と声を上げて驚かれたのでオレの方が驚いた。まさかの図星だったのか。
「あ、食いたくて褒めたわけじゃないです。でも先輩の料理を食べてみたいのは確かです」
「でもおまえ家に飯あるだろ」
目を輝かせて言われてオレは戸惑った。作るのは構わないけど別に今日じゃなくても、と言いかけたところでイツキの方が先に口を開く。
「飯はありません。だから弁当とか買って帰ろうと思ってて」
「……なにか事情が?」
当然のように言うイツキに、オレは迷いつつも口を開いた。知り合って間もない他人の家のことだ、用心深く尋ねるオレにイツキはあっさり首を横に振ってみせる。
「父子家庭の一人っ子なだけです。親父は仕事忙しくて帰るのは毎日深夜だし、掃除洗濯は家事サービスに頼んでるけど料理は対応してないからいつも夕飯はオレひとりで」
「わかった。食ってけ」
「え?」
「飯、作ってやるから食ってけ。うちはいつでもOKだから」
力強く主張するオレにイツキは圧倒されたようだったけれど、やがて「ありがとうございます」と嬉しそうに微笑んでうなずいた。別に同情したわけじゃないしイツキにしたって同情なんかされたくもないだろうし、そうじゃない、そうじゃなくて、とりあえず料理の手間に二人前も三人前も大差はないんだ。だったらひとりで過ごす夜なんて、ひとつでも少ない方がいいじゃないか。
◆
イツキと駅前のスーパーで買い物をした。豚肉と牛乳と食パンとトイレットペーパー。そしてまた連れ立って家に帰りキッチンに並んで夕飯の支度をする。味噌汁に入れるキャベツをきざむイツキの包丁さばきは危なっかしいことこの上なくてオレはハラハラしたけれど、学校やお菓子の話をしながら料理をするのはいつもと違ってなんだか楽しい。
「おまえ料理苦手なんだ」
野菜を煮込んだ鍋に真剣な手つきで味噌を溶かし込んでいるイツキに聞くと、困ったような顔をされた。
「はい、普段自分のためだけに飯作るとかしないし。だからお菓子作りなんて想像のはるか上です。先輩のこと本当に尊敬します」
「だから大げさなんだって」
オレは苦笑しながらおたまで味噌汁をすくって小皿に入れる。イツキの目の前に差し出した。
「味見」
「あ、はい、失礼します」
一瞬あわてた顔になったイツキが、腰をかがめてオレが差し出した小皿に口をつけた。自分で持たないのかと少し可笑しく思いながら、目を伏せて待つイツキの顔にゆっくりと小皿を傾けてやる。
「どう? 味薄い?」
「美味しいです。というかエプロン姿の先輩と並んで料理できるなんて、胸がいっぱいで正直味がわかりません。天国にいるみたいです」
「おまえそういうセリフ頭の中にストックしてんの?」
味見役としてはなはだ不適任なイツキにあきれて、オレは自分で同じ小皿に味噌汁を入れて飲んだ。普段より具材が多めで心配したけれど、いつもの味の範疇だと安心する。後ろでイツキが「間接キスだ……」とかつぶやく声がしたけれど、聞こえないふりで無視しておいた。




