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さようなら

 俺は、もうどうでもよくなっていた。

 生きることも、人と関わることも、仕事も――全部、穴の空いた器に水を注ぎ続けるみたいに虚しかった。


 思えば、こうなる種はとっくに撒かれていたのだろう。

 幼い頃から、家の中で俺の居場所はなかった。長男というだけで理由もなく厳しくされ、妹たちとは露骨に扱いが違った。

 あの頃から、心のどこかがずっと軋んでいた。


 学校に逃げ場なんて無い。小学校ではADHDの特性がすぐに目立って、教師にもクラスにも“扱いづらい存在”として固定された。

 中学に入れば、部活での体罰が日常茶飯事になった。殴る、蹴る、締め上げる。暴力がそのまま指導と呼ばれていた。


 それを家で訴えても、親は助けなかった。むしろ逆だ。

 教員と笑いながら電話していたのを覚えている。

 「うちの子が悪かったら、殴っても蹴っても構いませんから」

 その言葉で、俺の中で何かがひとつ確実に壊れた。


 妹に同じことが起きれば学校へ怒鳴り込むくせに、俺には何もしない。

 “世間体”と“矯正”のためなら、俺が壊れても構わなかったのだろう。


高校に入ってから、俺は格闘技を始めた。

 殴られ続けて育った子どもが、殴り方を覚えるのは皮肉だが、俺には必要だった。

 筋トレも始め、体は見る見る変わった。気づけば、同年代で俺に勝てるやつはいなくなっていた。


 俺が通っていた高校は、分かりやすいほど単純な世界だった。

 “強さが全て”。

 勉強でも家柄でも人柄でもなく、ただ腕っぷしだけで序列が決まる。

 だから一度強さが認められると、派手な格好をしていようが、堂々と遅刻しようが、校内で喧嘩していようが、誰も何も言えなくなる。

 上級生も、教師すらもだ。


 そんなチンピラみたいな生活を五年続け、二十歳を迎えた。

 俺は工場で働き始めたが、そこで初めて壁にぶつかった。

 週五の筋トレも、週六の格闘技も続けられない。

 ルーティンが崩れた途端、押し込めていたはずの過去が洪水のように溢れてきた。


 ――殴られた日々。

 ――見捨てられた家。

 ――そのくせ強くなれと矛盾した要求を突きつける大人たち。


 気づくまで時間はかからなかった。

 筋トレと格闘技は、ただの鍛錬じゃなかった。

 “思い出さないための麻酔”だったのだ。


 身体を限界まで追い込み続け、思考の余白を潰して初めて、俺は自分を保てていた。

 その支えが崩れた瞬間から、俺はゆっくりと、しかし確実に壊れ始めた。


 そこからの俺は、緩やかに落ちていった。いや、緩やかですらなかったのかもしれない。

 工場の仕事は数年で辞めた。夜になると眠れず、朝になっても身体が動かない。布団に沈んだまま目だけが生きていて、魂はどこか遠くへ逃げているような感覚だった。

 働く気力も、考える力も、怒る力すら消えて、ただの抜け殻になっていた。


 廃人みたいな一年を過ごして、ようやく少しずつ持ち直した。

 また筋トレを始め、身体はある程度戻った。

 「今度こそ自分の力で立つ」

 そう思って自営業に賭けた。商品を直し、売り、汗で生活を作り直そうとした。


 だが、現実は残酷で淡々としていた。

 努力と結果が必ず結びつくほど、人生は優しくなかった。

 数字は伸びず、借金は増え、焦りは胸を焼くばかりだった。


 気づけば三十代になっていた。

 何をしてきたのか。何を失ったのか。

 そもそも俺に生きる価値なんてあったのか?

 考え始めると、胸の奥が冷たくなる。

 幼い頃から俺を“壊してきた”大人たち――親も教師も――結局は俺の人生なんてどうでもよかったんじゃないか、と。


 だが、この頃の俺にはもう、そんな怒りすらどうでもよかった。

 未来のことも、誰の責任かも、善悪すらどうでもいい。

 ただひとつ、“終わりたい”という思いだけが濁った水みたいに胸の底で静かに溜まっていた。


 俺は昔のツテを使った。

 チンピラの頃に繋がっていた筋を辿り、小さな金属の塊――拳銃を手に入れた。

 冷たく、重く、無慈悲な道具。だが、生きるよりは簡単な選択肢だった。


 その日のうちに、俺はキャンプ場へ向かった。

 人が寄りつかない、山の奥の安いテントサイト。

 夜の冷たい空気の中、テントの中だけが妙に温かい。

 決意なのか諦めなのか、自分でもよく分からない感情が静かに胸に沈んでいた。


 拳銃を握る。

 指が震えないことに驚いた。

 ――ああ、俺はここまで来たんだな。


 耳を塞ぐような静寂の中、ゆっくりと銃口を額へ当てる。

 冷たい金属が皮膚を押す感覚。

 その瞬間、妙な安らぎがあった。



 殴られ、黙らされ、見捨てられながら育った子どもが、大人になって突然うまく生きられるわけがない。

 それでも俺は必死にやってきたつもりだった。

 自営業としての仕事、鍛えた身体、技術、努力。

 だが結果は出ない。体調は崩れ、気分は底に沈む。


 ――もう、こんな人生で戦う理由はどこにある?


 「これで全部終わる」


 そう思って引き金を絞った。


 世界が弾ける光と衝撃で塗り潰され――

 すべてが終わった、はずだった。


 だが、俺は死ななかった。


 目を開けた時、そこはテントでも夜の森でもなく、見知らぬ世界だった。


 そこからだ。俺が「ヒール」に手を伸ばしたのは。


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