6. 家族だと
お気に入りのドレスに着替えて化粧も直す。意志が強く見えるよう眉に少しだけ角度をつけ、髪も一分の隙のないようにセットしてもらった。
背筋を伸ばして胸を張り、顎を少し引く。一度深呼吸をしてから客間の扉を開けてもらい、中に足を踏み入れる。
一番狭い客間、といっても公爵邸の中ではという意味なので、シャルロッテからしたら充分な広さがあると感じる部屋だった。
緑とクリーム色のストライプに月桂樹の模様が織られたソファには、ヨゼフィーネとアロイスが優雅に腰掛けていた。その向かい側には蛇に睨まれた蛙のような状態で、神官長とこの国の宰相が顔色を失くして佇んでいる。二人ともシャルロッテに気がつくと、はっとして息を呑んだのが分かった。
張り詰めたような空気に満ちており、天井のシャンデリアが場違いに煌めいていた。
「お待たせいたしました」
二人のことは一切見ず、ヨゼフィーネたちに向かって言う。
アロイスが立ち上がり、母と自分の間にシャルロッテを座らせる。立ち居振る舞いも何もかも、彼女は神殿にいたときとはまるで違う。神官長と宰相は一言も発することが出来ずにただそれを見ていた。
「お二人とも、そんなところに立っていないで座られたらどうです。いつまでもそうしていられると……見下されているようで、少々気分が良くありませんね」
表情こそ笑顔だが、普段のアロイスからは考えられないような低く冷たい声だった。未来の公爵の指摘に神官長と宰相は慌てて席に着く。
「シャ、シャルロッテ……様。お元気そうで何よりです」
「ええ、神官長も。どうぞ普段のように呼び捨てで、気軽にお話しください」
「はは……は、そんな畏れ多い……」
神殿で必死になっていた頃は一度も様付けで呼ばれたことも敬語を使われたこともなかった。見た目と態度がちょっと変わっただけで対応がこれほどまでに変わるなんて、今までどれだけ侮られていたのかがよく分かる。
シャルロッテは冷めた気持ちになり、思わず口の端を上げて小さく笑ってしまった。バサバサの金の睫毛で縁取られた大きな目で神官長をじっと見つめると、彼は気まずそうに目を逸らして俯いた。
「シャルロッテ殿、火急の事態が発生しているのです。速やかに神殿へお戻りを」
髭を生やした宰相は咳払いをしてから捲し立てるように言った。最初こそシャルロッテの威厳に気圧されていたが、公爵家に保護されているとはいえ所詮は何の権力も持たない小娘だとでも思い直したのだろう。言い返したいことをぐっと堪えて、あえてゆっくり聞き返す。
「……火急の事態とは何でしょうか?」
「結界が破られ、各地で魔獣による被害が出ているのです。このままだと数日も経たないうちに王都にまで入り込んでくるでしょう。貴方には神殿に戻り、結界を張り直していただきたい」
「新しい聖女様がいらっしゃるでしょう。結界を張るのは王家と神殿から正式に認められた聖女の務めのはずです」
言い返されるとは思ってもいなかったのか、宰相はわずかに怯み勢いを失くした。
「ロジーナ殿の力は……あるにはあるのですが、シャルロッテ殿に遠く及ばず……」
「貴方を追いやったのはヘンリク殿下の独断でした。神殿はシャルロッテ様を再び迎え入れる用意があります。部屋も家具も最高級の物を用意し、世話役も付けましょう。過去の過ちについてはこの通り深くお詫びいたします。どうか我々に力をお貸しください」
あまりの勝手な言い分にめまいがした。
つまり彼らは、「聖女に対するそれではない」と認識したうえであの扱いをしていたのだ。
隙間風が入る狭小の使用人部屋に、ギリギリまで削られた粗末な食事。上がそのように扱うものだから、神官の中にはあからさまに馬鹿にしてくる者もいた。何の後ろ盾もない平民の小娘をいいようにこき使い、その恩恵をぬくぬくと享受していたのだ。それを本人に言うなど、本当に何も分かっていないのだろう。
下唇を噛み膝の上に置いた手をぎゅうっと握り締める。甲に薄っすらと血管が浮き出た。
そこに、大きくて温かい手のひらがそっと重ねられた。横を向くとアロイスがこちらを覗き込み優しく微笑んでいた。大丈夫だと、言われた気がした。
顔を上げ、神官長と宰相を見て上品に微笑む。それを見た二人は何を勘違いしたのか、一瞬安堵の表情を浮かべた。
「私は戻りません。あのとき公爵家の方々に助けていただかなければ、今頃どうなっていたことか……。先ほどヘンリク殿下の独断だと仰りましたが、あの後皆さんのうち誰か一人でも私のことを探してくださいましたか。今回のようなことがない限り見捨てていたんでしょう。私はもう聖女ではありません。これ以上そちらの都合で振り回すのはやめてください」
二人の目を見てはっきりと言い切る。次の瞬間、二人は顔を赤らめたり青ざめたりさせて、噛みつくようにシャルロッテに詰め寄った。
「なぜです! 国の一大事なんですよ! いい加減聞き分けなさいシャルロッテ!」
「いくら聖女の地位を剥奪されたとはいえ、これは力を持つ者の義務。お前の我儘でどれだけの民が死ぬと思っている!?」
「ふざけるな! シャルロッテが国を支えていたことを理解せず追放同然に追い出し、挙句の果てに困ったから戻ってこいだと? 我儘を言っているのはどちらだ! シャルロッテ、こいつらの話など聞かなくていい。耳を貸す価値もない」
空気がビリビリ震えるほどの大声でアロイスが咆えた。彼の顔は見たこともないほどに険しくなり、シャルロッテに重ねている手と反対の拳は血が止まって白くなるほど強く握り締められ震えている。このままでは手が出てしまいそうだった。
止めに入ろうか迷っていると、突然バキッ!という乾いた音が響いた。
「ま。ほほ。扇子が折れてしまいましたわ。お二人とも、ちっとも面白くないご冗談を仰るものですから。誰か、代わりを持ってきてちょうだい」
ヨゼフィーネの手に握られた扇子が真っ二つに折れていた。室内はしんと静まり返り、身を乗り出していた神官長と宰相はそのままの姿勢で固まった。
彼女はメイドから新しい扇子を受け取ると、折れたものは渡さずにテーブルの上に置いた。下手なことを言えば次にこうなるのはお前たちだぞ、という言外の脅しである。二人とも威勢のよさは消え去り、身体を元の位置に戻して縮こまった。アロイスもふっと息を吐いて肩の力を抜き、くしゃりと髪を掻き上げた。
「こんなのが――失礼、貴方がたのような人達が神殿と国政の上層部にいるというのなら、結界が破れようと破れなかろうとこの国は遅かれ早かれ滅びます」
ヨゼフィーネはにこやかに言いながら、扇子を広げて口元を隠した。
「黙って聞いていれば先ほどからなんという暴言。この子は聖女である前に一人の人間、我々と同じこの国の民なのですよ。そして今は私の娘。都合よく利用しようというのならやってご覧なさい。私がへし折ります」
テーブルの上にちらと視線をやってから目の前で縮こまる二人を見やった。二人は限界まで小さくなり、手と手を取り合って震え上がっている。
シャルロッテはそれを冷ややかに見つつも、ヨゼフィーネの『私の娘』という言葉を反芻していた。
「今日のことは父にも報告いたします。クローネンリヒト公爵家としてどういう対応を取るか話し合わなければなりませんので、今日はお引き取りを。行きましょう、シャルロッテ嬢」
アロイスが感情の消えた声で言い放ち立ち上がると、神官長と宰相も慌てて立ち上がって頭を深く下げた。それでは足りないと考えたのか、そのまま二人とも床に手を付き土下座した。
「お待ちください! 重ね重ね大変失礼いたしました、申し開きのしようもございません。しかし魔獣による被害が出ているのは事実なのです、どうかお考え直しを!」
「シャルロッテ殿、この通りだ……いや、貴方にしか頼めないのです、お願いします!」
「しつこいわね、いい加減に――」
「分かりました」
「シャルロッテ嬢!」
「シャルロッテさん!?」
四人分の視線が一気に注がれる。
二人からは驚愕と心配、もう二人は期待の眼差しだった。
シャルロッテは少しだけ目をぱちぱち瞬かせて、ふ、と微笑んで己の家族を見た。
「私にしか出来ないというのなら、結局私がやるしかありません。正直、この国のことは本当にどうでもいいんです。薄情に思われるかもしれませんが、王都がどうなろうと知ったことではありません。でも……これを放置すれば、きっとこのリンデンシュタインの街にも魔獣がやってくる。私は、私のことを家族だと言ってくれた貴方たちを護りたいんです」
アロイスは眩しいものを見たかのように目を眇めた。ヨゼフィーネは目を潤ませ、「シャルロッテさん……」と娘の名前を呟く。神官長と宰相は今度こそ安堵のため息を漏らした。シャルロッテは気を抜く二人に向き直ると、再び冷ややかに言った。
「ただし、条件があります」
使者二人は躾けられた犬のように背筋をピシッと伸ばした。