4. 私の居場所
彼のスマートなエスコートに、シャルロッテはぎくしゃくとついていく。
時折シダーウッドのスパイシーな香りがふわりと鼻をくすぐり、その度に身体の近さを意識してしまい心臓が痛くなる。
肌触りの良い裾の長いドレスも高いヒールにもまだ慣れない。けれども彼は急ぐことなく、シャルロッテに歩調を合わせてくれた。
散策路を歩いていくと、午後の穏やかな陽の光に照らされた薔薇が一面に咲き誇っていた。真紅の花が多いが、中には桃色や黄味がかった色のものもある。石造りの低い花壇の中で人の腰よりも高い位置まで茎が伸びていた。
辺りには薔薇の甘い香りが漂い、まるで夢の中にいるようだった。
「わあ、綺麗!」
「今が一番美しく咲く時期なんです。お見せできてよかった」
「全部薔薇なんですか? 色や形が違うのもありますが」
「ええ、種類は違いますが全て薔薇ですよ」
「色々あるんですね。知らなかった……」
そっと手を伸ばそうとしたとき、急に手を握られた。
驚いてアロイスを見上げると、彼も驚いた顔をしておりパッと手が離れた。
「申し訳ありません。棘があるので、触らない方がよろしいかと」
「そ、そうなんですね。すみません」
「いえ……」
握られた方の手を、もう片方の手で握る。触れられた部分が熱を持っているかのようだった。
そのままどちらも口を開くことはなく、黙ったまま薔薇園を眺める。むず痒いが気まずさはない。むしろこのままずっと二人でこうしていたかった。
時折風が吹き、ほどけるように薔薇が散っていく。飛ばされた花びらの一枚がひらひらとシャルロッテの髪に落ちた。それを取ろうとアロイスが手を伸ばしたとき、シャルロッテは彼を見上げた。視線と視線が交じり合い、一瞬息が止まる。
「ついていました」
アロイスの手にはひとひらの花びらが握られていた。
上手く言葉が出てこなくて、何かを言おうとしても「あ」とか「いえ……」とか、吐息まじりの小さい声にしかならなかった。どうすればいいか分からなくなって、自分で自分が嫌になる。
「少し休みましょうか」
そんな彼女を見かねたのか、彼はそう言うと右手を差し出してきた。「はい」と返事をしながらそっと左手を乗せて、寄り添って歩く。足元がなんだかふわふわしていた。
石畳の小径を進むと、やや奥まった場所に白い円形の東屋があった。
丘の近くに建っていて、東屋に据え付けられたベンチに座っていても街の様子がよく見えた。赤レンガの屋根が連なり、遠くにはエメラルドグリーンの運河が見える。公爵邸から真っ直ぐに位置する広場には時計台があり、豆粒よりも小さな人々が行き交っていた。
「すごい……! 良い眺めですね」
「そうでしょう。私のお気に入りの場所なんです」
左の方に目を向けると、遠くの方に白い光が空を突くように伸びていた。その光を追って目線を下げると、かすかに白い塔が見える……ような気がするが、遠すぎてよく分からない。
「あれは何ですか?」
「あれが聖女の結界ですよ。あの下に王城があります。ここのように離れた場所からでないと全体が見えないそうです。以前は常にあの光が見えていましたが、ここしばらくは途絶えていて……そうか、シャルロッテ嬢がここに来たから……。でも、今日は珍しく見えていますね」
神殿で祈った力が王城に設置されている結界石に集約されて、国中を覆う結界となる――説明は聞いていたが実際に見たことはなかった。
「そうですか、あれが……。あんな風に見えていたとは知りませんでした。あの光はきっと今の聖女様の結界ですね。殿下が直々に選ばれた方だから、私よりも優れた力を持っているはずです」
皮肉ではなく心からそう思う。神殿が選んだ平民より、殿下の選んだ貴族令嬢の方が、王家としても体面がいいだろう。
自分が張っていた結界は、新しい聖女様の邪魔にならないよう神殿を出て行くときに解除しておいた。二つが重なると不安定になってしまうかもしれないと考えたからだ。それが正しかったかは分からない。そのままにしておいてもロジーナの強固な結界に掻き消されたかもしれない。
ここからは見えないが、王城の近くに神殿もある。数週間前まで当たり前にずっと過ごし、身を削りながら結界を張り続けてきた場所。
(もうあそこに私の居場所はない。……ううん、そんなもの最初からなかったのかも)
今の自分の居場所は公爵家だと、厚かましくも本当にそう思ってもいいのかもしれない。けれど今でもたまに、これは都合のいい夢なんじゃないかと不安になる。
シャルロッテは頭をふるふる振って気持ちを切り替えようとした。せっかく素敵な時間を過ごしているのに、余計なことは考えたくない。
そう思ったのに。
「どうされました?」
優しく聞かれて心が揺れた。
そしてつい、ぽつりと漏らしてしまう。
「……少し、今までのことを思い出してしまって」
「思い出させてしまい申し訳ありません」
「いいえ、そうではないんです。そうじゃなくて……」
アロイスは黙って次の言葉を待っているようだった。うまく話せるか分からないが、この人ならきっと真摯に耳を傾けてくれる。
「皆さんのおかげで、今とても楽しく過ごさせていただいています。今が人生で一番幸せなんです。でも……本当に、私なんかがここにいていいのかと。時々不安になるんです」
「シャルロッテ嬢……」
「今まで聖女としてこの国のために尽くしてきました。自分で選んだ道ではなかったけど、それでも人々の役に立てるならと私なりに精一杯頑張ってきました。でも、殿下に出て行けと言われただけであっさり役目を放り出してしまいました」
あのときは嬉しかった。やっと自由になれるんだと、目の前のことしか考えられなかった。
シャルロッテは目を伏せて、かすかに震える声で話を続ける。自分を庇うように胸の下で腕を組んだ。
「でもこちらで楽しく過ごすうちに、神殿を出たのはやっぱり間違いだったんじゃないか、戻らなければいけないんじゃないかと、どうしてか分からないけど罪悪感が湧いてくるようになったんです。毎日笑って過ごすなんて、私には分不相応なことなんじゃないかと。……かと言って、追い出されたのでもう戻れないんですが。いえ、決して戻りたくはないんですけど」
ふふ、と自嘲気味の笑みが漏れた。膝の上に置いた手に、無意識のうちに力が入っていた。
「あんなに自由になりたかったのに……。皆さんが私のために怒ってくれて嬉しかったのに、そう思ってしまうのは裏切っているようで。……でもずっとここにいたいのも本当で……もう、どうすればいいのか分からなくて――」
そこまで言って唐突に後悔した。せっかく公爵家の方があんなに心を砕いてくれているのに、失礼だったんじゃないか。一気に体が冷えていく。こんなこと言わなければよかった。隣に座る彼が、今どんな顔をしているのか見ることができない。
ふう、と息を吐く音が聞こえて、心臓がキュッと縮む。背中に嫌な汗が流れた。
「……誰だって、それまでの自分を否定されればどうすればいいか分からなくなります。子供の頃から十年間、いやそれ以上の長い間ずっと身を捧げてきたことだったのに、ある日突然取り上げられたわけでしょう。貴方は今、迷子になっているんです」
俯いた頭の上に降ってきたのは優しい声色だった。
おそるおそる顔を上げると、アロイスは眉尻を落として寂しそうに笑っていた。
「もしも同じ境遇に置かれたら、私なら一日ももたずに逃げ出します。それでも貴方は逃げなかった。逃げ方を知らなかっただけかもしれませんが、腐らず手を抜かず懸命に頑張ってきたんでしょう。でもそれを一方的に否定されて切り捨てられた。取り巻く環境が一気に変わってしまった。今までの努力は何だったのかという憤りも、戸惑いも、……戻らなければという矛盾した感情さえ、あって当然です」
翠の瞳が優しく彼女を捉える。
また風が吹いて、彼のミルクティー色の髪を柔らかく揺らす。薔薇の香りがここにまで届いた。
「貴方はそれまで得るはずだった人並みの幸せを先送りにしていたんです。胸を張って幸せになって良いんですよ、シャルロッテ嬢」
じわりと、アロイスの言葉が胸の奥に沁み込んでいった。
「……そう、なのでしょうか」
「もちろん。シャルロッテ嬢が望む限り貴方は公爵家の一員。毎日楽しく笑って、やりたいことを見つければいい。見つからなければ……そうですね、こうやって私と散歩でもしましょう」
「アロイスさん……」
「貴方のご両親も、貴方の幸せを望んでいるはずですよ」
「私の、両親」
『シャルティ』と、耳元で誰かに呼ばれた気がした。
子供の頃誰かに呼ばれていた、あだ名。
その時、靄が晴れるように両親の顔が鮮やかに蘇った。優しく抱き締めてくれた母、少し調子外れの子守唄を歌ってくれた父。思い出したくてももうずっと思い出せなかった彼らの姿。そうだ。シャルティと呼びながら頭を撫でてくれる二人が大好きだった。
別れの日、二人は馬車に向かってずっと何かを叫んでいた。馬車の中からはよく聞こえなかったけれど、あれはきっと娘の行く末を案じる言葉だった。どこへ行ったとしても、幸せになってほしいという願い。それはおそらく、命の灯が消える最期の瞬間まで。
「あ……」
ほろっと涙が一粒溢れ出ると、もうそのまま止まらなくなった。胸が詰まり、息がうまくできなくなる。ごめんなさい、と謝罪の言葉が零れた。何に対する謝罪なのかも分からず何度も繰り返す。
アロイスはハンカチを取り出してシャルロッテの頬にそっと押し当てた。思わず彼の胸に縋りつくと、何も言わずに背中を優しく撫でてくれた。それがまた温かくて、自分の醜い部分も何もかも、彼なら全て受け入れてくれるような気がした。
太陽が傾きだした頃、ひとしきり泣いて落ち着いたシャルロッテはやっとアロイスの胸から離れた。彼の胸元は涙に濡れ、シャツは握り締めたせいですっかりシワシワになってしまっている。
「も、申し訳ございません。なんというご迷惑を」
「とんでもない。女性に胸を貸すなど、男にとって名誉なことです」
そう言いながら目を細めて笑い、びしょびしょになったハンカチを丁寧に折り畳んでポケットに収めた。
「先ほどの話ですが」
「?」
「私の父と母も、貴方の幸せを願っています。無論私も……ああいえ、少し違いますね」
顎に手を当てて視線を下方に向け、またシャルロッテに戻す。
「私は貴方と一緒に幸せになりたいです」
「私と……?」
夕風が東屋の中を吹き抜けていく。彼女の蜂蜜色の瞳が見開かれ彼の姿を大きく映した。アロイスが手を伸ばしかけて、止めた。立ち上がって右手を差し出し、彼女がおずおず手を重ねるとそっと引いて立たせる。
「風が冷たくなってきましたね。そろそろ戻りましょうか」
「あ……はい」
どういう意味だろうか。気になったが、これ以上その話を続ける気はないようだった。差し出された彼の右腕に左手を添え、昼間ほど固くならずに足を踏み出す。
ふと振り返ると、遠くに見えていたはずの王城は見えなくなっていた。あの光はすっかり消え失せ、ただ赤レンガの街並みが広がっている。一瞬不思議に思ったがそれ以上にアロイスの言葉が頭の中を占め、すぐに頭の片隅に追いやってしまった。




