1. 追放された聖女
「……ロッテ! シャルロッテ! 起きろ!」
「う、ん……? ごきげんよう、殿下」
シャルロッテが目を覚ますと、婚約者である第一王子ヘンリクが眉を釣り上げてこちらを睨んでいた。
それはいつものことなのだが、いつもと違う点がひとつ。彼はぼろけた修道服を着たシャルロッテとは対照的な、華やかなドレスに身を包む美女の肩を抱いていた。
不思議に思いながら冷たい石床から体を起こすと、シャルロッテのハニーゴールドの長い髪がさらりと落ちた。ヘンリクの眉間のシワがさらに深くなる。
「『ごきげんよう』ではない! 貴様、また聖女の務めをロジーナに押しつけて自分はサボりか!」
「あの、確かに横になっておりましたが、別にロジーナ……様?に押しつけていたわけでは」
「黙れ、言い訳は不要だ!」
目を三角にしたヘンリクは忌々し気に手を振ると、隣に立つロジーナをぐっと抱き寄せた。
「毎日毎日だらしなく寝てばかりの貴様には愛想が尽きた。今この時から貴様は我が国の聖女ではない!」
「えっ?」
シャルロッテの胸が高鳴る。
「大体貴様のようなつまらない平民女と婚約させられていたことにも我慢ならなかったんだ。今日から聖女の地位はこのロジーナ・ドロシュラー伯爵令嬢のものであり、俺の婚約者もロジーナとする! 貴様との婚約は破棄だ」
ヘンリクが高らかに宣言し、ロジーナは勝ち誇ったように笑った。
次の瞬間シャルロッテの目は輝きを取り戻し、頭の中に祝福の鐘が鳴り響いた。
「ふん、泣いて縋っても……」
「えっいいんですか? いいんですね!? やったー!」
「は?」
「こほんっ。失礼いたしました。それは国王陛下と神官長にもご報告済みということでよろしいですよね?」
「と……当然だ! もう貴様には関係ない。それに薄汚い平民の貴様と違い、ロジーナは由緒正しい貴族だ。力の差は歴然だろう。分かったらさっさと神殿から出ていけ!」
「承知いたしました。力及ばず……殿下のご期待に添えられず申し訳ございませんでした。それでは失礼いたしますね」
にこ、と寂し気に微笑み頭を深々と下げる。苦々しい顔でこちらを睨みつけている二人の方を見ないように、静々と部屋を出た。
「やっと邪魔者が消えたな」「嬉しい、ヘンリク様!」と喜ぶ二人の声は、扉を閉めると何も聞こえなくなった。
どうしよう。どうしよう! どうしよう!!
頭の中をそればかりが占める。自室に向かって早歩きをしていたはずが完全に走り出していた。
シャルロッテは平民の生まれで、6歳のときに聖女としての力が覚醒して神殿に引き取られた。幼いシャルロッテは「嫌だ、行きたくない」と大泣きしたが国の命令には逆らえなかった。
それから彼女の生活は一変した。
切れ端がちょっぴり浮いた野菜スープに黒パンひとかけらの朝食を済ませると、すぐに祈りの時間になる。聖女の力を全て出し切るまで朝から晩まで祈りを捧げ、この国を覆う結界を張り続ける。昼食や休憩は無い。
聖女の力が尽きると虚脱感に襲われ、気がつくとその場に倒れ込んでしまっている。
近頃は神殿内の掃除や洗濯といった雑用まで言いつけられるようになり、やっとの思いでそれを終わらせた後はまた祈りを捧げる。
夕食は深夜になってから。メニューは朝と同じか、芋がひとかけら追加されればその日は運がいい。
硬いゴワゴワした寝心地の悪いベッドで眠りにつき、また早朝に起きる……。
そんな生活を十年以上続けてきたのだ。
もちろん聖女の務めを誰かに押し付けたことはないし、ロジーナ様とやらとも今日が初めましてである。
突然目の前が開けたようだった。にやけそうになる口元を両手で抑えながら部屋の扉を開ける。この住み慣れた粗末な使用人部屋とも今日でお別れだ。必要なものをまとめると小さな鞄一つに全て収まった。
(私、もう自由ってことよね! 自由……なんて素晴らしい響きなの!)
これから先どうなるのかという不安は一切なかった。踏み出す足取りは軽く、どこまでだって行ける気がした。
◆
数時間後、街には道に迷ったシャルロッテの姿があった。
「こ、ここはどこなの……?」
あの後、ひとまず子供の頃に住んでいた街、リンデンハインに行こうと決めた。
数年前、両親が揃って流行り病に罹り危篤との報が入った。どうか最期に一目会いたいとヘンリクに懇願したが、返ってきた言葉は、
『は? どうせすぐ死ぬだろうに行くだけ時間の無駄だろ』
――だった。
結局二人はそのまま亡くなり、死に目はおろか葬儀にすら立ち会えなかった。
もはや記憶は朧気で、声も顔すらも靄がかかったように思い出せなくなった。
ただ神殿に向かう馬車に向かって必死に何かを叫んでいる場面だけが瞼の裏に焼きついている。二人が埋葬されている場所も分からない。
それでも、名前だけは憶えているその街に行ってみたかった。
乗合馬車に飛び乗り、がたごと揺られること数時間。
おしりの痛みは気にならず、後ろへ流れていく景色を子供のように夢中で眺めた。青い空、どこまでも広がる草原に草を食むもこもこの羊たち、そのすぐそばの風車小屋、小さな村。
神殿のある王都から出たことのなかったシャルロッテにとって、何もかもが新鮮だった。
(たまにお使いさせられててよかった。馬車の乗り方、物の買い方……知らなかったらあのまま途方に暮れてたかも)
聞き覚えのある名前の街で馬車を降り、見覚えのない舗装された石畳の道をあてもなく歩いた。
結果、迷った。
両脇には古びた石造りの建物が並び、壁はところどころ漆喰が剥がれ落ちてレンガが覗いている。二階や三階建ての建物が多く、前も後ろも同じような景色が続いている。
ランタンや小さな看板があちこちに取り付けられているが、ここは裏通りなのか人の姿はほとんど無い。
「こんなに大きな街だったっけ? もっと小さな……のどかなところだった気がするけど、十年も経てば街も人もずいぶん変わっちゃうのね……」
ひたすら歩き続けるが、見覚えのある場所は見つからなかった。もう足はくたくたで一歩も歩きたくない。一旦馬車を降りたところまで戻ろうとして、はたと気がつく。
「どうしよう。どっちから来たんだっけ。お金ももうあんまりないし……。どこかに教会があればいいんだけど」
手持ちの小銭を数えながらため息をつく。
今手元にあるのは、雀の涙ほどしか手渡されていなかった給金の中からコツコツ貯めたお金だ。
神官見習いの貴族たちと比べても大分少ないと気がついたのは数年前のことだった。神官長に聞いてみたら、「私も何度も上へ抗議しているんだが……」と苦い顔で言われてしまった。
とりあえずこっちに進もうかと振り返った時だった。
遠くで何かがドサッと落ちる音が聞こえた。続いてけたたましい馬の嘶きが響き、女性の甲高い悲鳴が上がった。
咄嗟に音がした方向に走ると、角を曲がったところで大通りに出ることができた。さらに少し進んだところで人だかりができているのが見えた。
「子供が馬車に轢かれたぞ!」
「ちくしょうあいつ逃げやがった!」
「誰か、誰か医者を呼んできて、この子が死んじゃう、早く!!」
何が起こっているか分からず一瞬足が止まった。しかし母親と思しき女性の叫び声に我に返り、慌てて人だかりに駆け寄る。
「どいて! 怪我人を見せてください!」
野次馬を掻き分けて近づくと、まだ幼い少年が頭から血を流してぐったりしていた。顔色は真っ白で、このまま放置すればすぐに息絶えてしまうと一目で分かった。
「どうか助かって……!」
少年の横に膝をついて座り、両手の指を組み祈る。
(――どうかこの子に生きる力を)
「何? シスター?」「医者はまだか」とざわついていた人々は、目の前の光景に息を呑んだ。
シャルロッテの全身にポウッと金色の光が宿り、それが弾けて粒になった。光の粒がきらめきながら少年に落ち、彼の体を包み込む。
(お願い、戻ってきて)
無我夢中で祈り続ける。
やがて光が消えると、少年の傷はすっかり癒えていた。
「お母さん……?」
「ああ、坊や……! ありがとうございます、ありがとうございます、聖女様! どうかお礼をさせてください」
「助かって良かったです。お礼はいりませんよ」
泣きながら息子を抱きしめる母親に微笑みを返し、一仕事終えたシャルロッテは立ち上がった。
「奇跡だ!」「聖女様だって?」「すごい……」
人々がざわめく中、シャルロッテは軽く会釈をしてその場からそそくさと離れた。
あんな風に人から感謝されるのは久しぶりだった。聖女になってすぐの頃は褒められたり感謝されたりすることもあったが、今では全て「やって当たり前」になっていた。
心臓の音はドキドキと大きく響き、自分の力で人を救えた達成感に思わず頬が緩む。
(もう肩書きは聖女ではないけど……役に立てて良かった。あっ、お礼代わりに道を聞けばよかった)
どうしよう、今から戻って聞くのも格好つかないなと考えながら歩いていたとき。
「聖女様、お待ちください!」
必死さの滲む声に振り返ると、息を切らして追いかけてくる青年の姿があった。身なりは良く、おそらく貴族だろう。目鼻立ちの整った顔はどこかやつれているように見えた。
「どうされました?」
「先ほどの聖女様の御力を拝見しました。お願いがございます、どうか私の母をお救いください……!」
「えっ?」
思いがけない頼みにシャルロッテは目を瞬かせた。
そよ風が二人の間を吹き抜けていき、彼女の長い髪を揺らした。