29. 契約破棄
私の魂をめぐる、悪魔の執着。
それが私のみならず、周囲の運命すらねじ曲げるものだった――真っ白な頭に、「ローズマリー」と甘く重い呼び声が響く。
『ルシファーによって過去に飛ばされたお前が、「神に権能を制限される未来」を変えてくれたからな!』
そのおかげで、より効率的に「悪魔を受け入れる私」を選別することができた――表情のないネコ頭は、興奮混じりの声を上げる。
「私が……未来を、変えた……」
西の試練を終えた後、たしかにルキはそう言って喜んでいた。
時間を巻き戻し、私の運命を捻じ曲げたルキは、神に権能を制限された。でも、その罰せられる直前に私がルキの前へ飛び出したから――罰せられる未来はなくなった。
つまり私は、悪魔が「別の時間の私」を効率よく壊すのに、手を貸したというのか――。
何度考えても、頭が置き去りにされる。
『安心しろ、理解する必要はない! 神ですら気づかぬほどの複雑な時間遡行だ』
固まる間にも、宙ぶらりんの身体を引き寄せられた。
黒い指が、震えの止まらない指に絡む。
『どうだ? こうして手を重ねれば……数多の「俺」との時間を思い出さないか?』
「え……?」
自覚のない“魂の記録”。
それは頭ではなく、魂に刻まれた出来事だとルキは言う。
「記録……」
天井に張り付いた悪魔へ縋るように、手を強く握ると――遠いところから、誰かに呼ばれた気がした。
『ロミ』
『ローズマリー』
同じ声に、何度も名前を呼ばれる。
耳に馴染む低音。時に少年で、時に青年の声。
『そう簡単に魂を傷つけるもんじゃないよ』
私を憂う言葉。
あれは本心だったのか、それとも――。
そして、あの言葉をくれる時に繋いだ手の懐かしさ。時に小さくて、時に大きい。
「……エルマー」
やっぱり、ルキはエルマーなのだ。
私が淡い思いを寄せた、大好きな彼。
でも、その彼は天使であり悪魔――私を手に入れようと必死な、恐ろしい男だった。
『お前は16回目の「反転」で、ようやく悪魔の俺にも笑いかけてくれた』
「え……」
でも、契約はしなかった――ルキは雑談でもするかのような調子で告白した。
知らない。
そんなこと、記憶にないはずなのに。
『21回目……あれは面白かった! 俺を殺してくれようとした』
ルキが巻き戻した思い出を語るたび、知らないはずの出来事が頭をよぎる。
これが、魂の記録――?
『それでも俺は満たされなかった。お前のすべてを手に入れるまでは』
知りたくない。
嫌だ――「あったかもしれない」運命を、「悪魔に壊されてきた自分」を、もう思い出したくない。
『そして……俺に心も身体も、すべてを許したのは「お前」だけだった』
悪魔は、震えの止まらない私の身体をそっと抱き寄せた。
頭と身体が分離したかのような感覚が、ずっと続いている。まるで処理できない感情から逃れるように。
恐ろしい所業。
決して許されないこと。
人間の理解が及ばない、おぞましいことなのに――。
私はやっぱり、とっくにおかしくなってしまったのだ。
「私……は……」
手元にナイフはない。
でも。
たとえあったとしても、私はそれを振るえただろうか――?
許されざることをしていたとしても、ルキの執着は本物――そんなことを、疑いなく思ってしまう自分がいる。
『ローズマリー……「分かれ」とは言わない。ただ……』
この悪魔は何度も時間を遡り、一番過酷な運命を私に辿らせた。
でも――。
ささいで美しいエルマーとの思い出。
ここへ来てからの愛の言葉。
私に寄り添おうと必死な悪魔の姿――ぜんぶが執着の証明になっている。
この悪魔は天使だった時代も通して、ずっと私を慈しんでいるのだ。
『ただ、お前を愛していた……俺のすべては、それだけだ』
寂しげな金銀の瞳に、胸の奥底を揺さぶられる。
いけないと分かっているのに、ふわふわの黒い頬へ、手を伸ばしそうになる。
『ローズマリーよ。迷うな……俺を選んでくれ』
弱い私の心を知り尽くすネコ頭は、今度は強く抱きしめてきた。
冷たく、鼓動のない身体――でも、私を確かに愛してくれる悪魔の熱を感じる。
私は――。
私はルキを、失いたくない。
「ルキ……私……」
焼けるように熱い目の奥から、涙が溢れる。
私はこれから、この悪魔に「愛される」のではなく「愛したい」。
これまで信じなかった分すべて、今度は私が心を捧げる番だ。
「私も……あなたの、すべてが欲しい」
『ローズマリー……』
ネコ頭が、人の姿に変わった。
この世のものではないと一目で分かる、私の美しい悪魔。
かすかに揺れる金銀の瞳が、静かに近づく。
そして。
唇が優しく触れる。
契約を永遠に――懇願するような金銀の瞳を強く見つめ返した、瞬間。
「まだ……まだ間に合うわ!」
激しい羽音が部屋に響いた。
巨大な灰色の翼に、視界を塞がれる。
この黒に染まりつつある羽は――。
「ミシェル……?」
「ローズマリー・セージ、悪魔に惑わされないで! 契約を破棄できれば、あなたの魂は再び生まれ変われるの!」
どこからともなく舞い降りた、堕ちかけの天使――ミシェルは、退魔のナイフを拾い上げた。
『聞くなロミ! あの天使の語る「救い」は、誠にお前にとっての幸せなのか?』
「それは……」
痛いほどに強いルキの手が肩を掴むと同時に、ミシェルが目の前へ飛び上がった。
冷たく光るナイフを携えて。
「聞かないでロミ! 悪魔の愛は所詮魂を手に入れるための手段でしかないの!」
「ミシェル、私……」
何と言われようと、もう決めた。
私は自分自身を捧げ、愛しい悪魔を永遠に手に入れる――。
「ごめん……ミシェル。私、ルキを愛してる」
「……ロミ……?」
ルキは、私が生前残した後悔を晴らしてくれた。
たとえそれが、コイツ自身によって仕組まれていたことだとしても。
幸せだったはずの人生と引き換えに、ミシェルとも出会えた。
「平凡なまま終わって、平凡な人生を繰り返すのが幸せな人もいると思う……でも、私」
ルキのおかげで、燃え盛るような憎しみと愛を知った。
苦しみ、悩み、嘆く人生だったとしても、その先に待っているのがこの悪魔だったならば――。
「私、今が一番幸せ……なんだ」
私を憂う天使に、精一杯の微笑みを向ける。
だから、もうミシェルも私から解放されていい――そう、告げると。
「ロミ……そう。自分で終わらせることが、できないのね」
「……え?」
ナイフが私の身体を貫いた。
ミシェルが、私を刺した――。
「ロミの手で終わらることができないのならば、私が終わらせてあげる……!」
痛みを感じるよりも早く、ナイフは身体から引き抜かれた。
私の血に濡れたナイフの切先が、悪魔を捉える。
「ごめんね……ロミ。私、あなたを救いたい」
ミシェル――彼女を呼ぶ前に、ナイフはルキの胸を貫いていた。
ミシェルは慈愛に満ちた微笑みさえ浮かべ、悪魔の心臓へナイフを進める。
「ルキ……!」
『ぐっ……ぁあ』
ナイフを握るミシェルの手は硬く、振り解けない。
どうすれば良いのか、分からない――。
「ルキ……ミシェル、やめて!」
ルキは黒い手を持ち上げた。
でもその手は、ミシェルを振り払うのではなく、私の頬に触れる。
『…………ま、って、いろ』
「え……?」
途端に、手の甲へ刻まれた「従」の印が、燃えるように輝いた。ルキの手にある「主人」の印も、同じように火花を散らしている。
そして。
私たちを結ぶ証――契約印が、音もなく消えていく。
「そんな……ルキ!」
胸の中心から引き裂かれるような痛みとともに、視界が歪んだ。
この感じ――初めてのことなのに、どこかで分からせられる。これは魂の「巡り」。
私の魂がルキの鎖から解き放たれ、どこかへ向かおうとしている。
ルキ。
声が出ない。
私の形が、ない。
でも目の前には、次の光が見えていた――。
次回『エピローグ:永遠の午後』




