2.退魔師の抵抗
「さぁて。食事が冷めちゃうし、食べようか」
悪魔の調子がいつも通りに戻った。
気がつけば、胸元のリボンタイは元通りに結び直されている。
「いつの間に……」
含みのある笑みを浮かべた悪魔は、「そんなことより」と雑談を始めた。
私を迎えるために、そこのベッドを新調したとか。
現世の私の祖国は、今夏だとか。
本当に取り留めのないことばかり――さっきまでの重い空気が嘘のように。
「じゃあ君も食べ終えたことだし、そろそろ退散しようかなぁ」
「え……?」
仕事は――。
そう言いかけたところで、悪魔は指をパチンと鳴らした。空の食器が勝手に扉から出て行き、椅子やテーブルが整頓されていく。
「そーいうわけで、メイドさんはおやすみ! それとも……朝まで一緒に遊ぶ?」
心底楽しげな悪魔を睨みつけると、今度は無邪気な笑顔でドアをすり抜けていった。
そのまま奇妙な夜が明け、赤紫色の朝が来ても、なぜか悪魔は仕事をくれない。
「もう君は王宮メイドじゃないんだよ?」――この一点張りで、もう何日が過ぎたのだろうか。
結局何度探しても事典にヒントはなく、悪魔の思惑も掴めないまま。そして今夜も、悪魔は豪勢な食事を運んできた。
「ロミ、あーん」
「……自分で食べますから」
いつものように生産性のない雑談をしつつ食事をして解散――のはずだったのだが。
「どうして床で寝ているの?」
一度退室したはずの悪魔が、なぜか部屋に戻ってきた。
とっさに寝ているフリをすると、悪魔はクスっと笑って頭を撫でてくる――冷たい手が頬まで滑り、思わず肩を揺らしてしまった。
「死者の灰みたいな色合いの髪が綺麗だね。できることなら、光を宿した瞳と見つめ合いたかったけれど……そこは冷えるよ。こっちで寝よう」
突然身体を抱えられ、思わず目を開けてしまうと。愉快そうに細められた金銀の瞳と視線が合った。
やはり恐ろしいほど美しい造形の男だが、悪魔とは人間を誘惑するのに都合がいい姿をしているものだ――祖母いわく。
「あれ? 見惚れてくれてる? この顔好みだった?」
「ちがっ! 別に見惚れてませんが」
悪魔の胸を遠ざけようと押しているうちに、いつの間にかベッドへ降ろされていた。
こんなに柔らかい寝床は初めてだ。
そんなことを考える間にも、悪魔はこちらを見下ろしている。私が困る表情を、逃さまいとするかのように。
「何の真似ですか? ご主人様」
「ルキフェルト。長いならルキでいいから、呼んでくれないかな? そのご主人様っていうのはやめてさ」
悪魔は悪魔。せめて業務的に『ご主人様』と呼ぶのは、まだ心が楽だった。
でも――不本意だが、従うしかない。
たいへん不本意だが。
「…………ルキ」
「うん、いいね」
何を嬉しそうに笑っているのか。
命令だから従っただけだというのに。
「いったい何の意味が」
言い終わらないうちに、悪魔の腕が背に回る。そのままそっと抱きしめられたが、冷たい胸板からは鼓動が感じられない。
「『愛してる』よ、ローズマリー」
「……っ」
また、あの言葉。
何かを企む悪魔の戯言、のはずなのに。
「愛」の響きに、身体の芯がざわつくのは何故だろうか。
そもそも悪魔という時点で対象外だというのに。
「さて。食事をしながら沢山の言葉を交わしたし、改めて『愛』を告白した。もういいよね?」
「ひぁっ! ちょっと何して……」
首筋に冷たくぬるっとした感触が這い、とっさに悪魔から離れようとしたが。見た目より頑丈な腕はびくともしなかった。
「やっ、やめっ、何なの!?」
「何って、君が望んだことじゃないか」
私が望んだこと――?
確信をもった金と銀の瞳に囚われ、全身の力が抜けていった。頭の奥に少しの痛みと重さを感じる間にも、再び背中がベッドへ沈んでいく。
「優しく気遣いができて、満足のいく衣食住を与えてくれる男。人間が恋に落ちるのに十分な条件だろう?」
「恋」とはそんな理屈っぽいものだっただろうか――私が焦がれて憎んだ彼女が教えてくれたのは、そんな表面的なものではなかった。
「あぁ、可愛いよロミ……そんなに反抗的な目をされたら、優しくできなくなりそうだ」
悪魔が笑う。
それでも、頬に触れる指を振り払えない。
どうして――?
コイツは人間じゃない。
なのに。
言葉が、触れる温度が、懐かしく感じてしまう。
まるで、何度も触れられたことがあるかのように。
「無垢なまま死んだ君を穢せるなんて、この時をどれほど待ち望んだか……分かる?」
耳をくすぐる囁きに、身体が震える。
なんで私の経験の有無を知っているのだろうか――最初のキスの時もそうだったが、この悪魔は知りすぎている気がする。
契約の時にしか、あのネコ頭を見たことがなかったのに。
「大丈夫、安心して。これ以上ないくらいに、優しく溶かしてあげるから」
考える間にも、胸元のタイが解かれる。
「だめっ……!」
鎖骨を滑る氷のような舌に抵抗すると、二度目の温度が唇に触れた。
息が、できない――。
一度目より深く、毒のように痺れる舌が触れる。
離れて、また触れる。
「はぁ……好き」
その言葉に、甘い感触に、思考が溶けていく最中。
『ロミ、悪魔の言うことを信じちゃならんよ』
おばあちゃん――。
そうだった。
空の言葉に騙されてはいけない。
私は誇り高き退魔師の孫なのだから。
「いっ……!」
思い切り噛み締めたのは、自分の唇。
そうして溢れ出た血は唇を伝い、悪魔の口内へ流れていく。
「ぐぁっぅう!」
断末魔の悲鳴とともに聞こえたのは、肉を焦がすような音。
退魔の血はうまく発動した。が、これは少々やり過ぎたかもしれない――。
黒煙が立ち昇る向こう側には、焼けた顔面を手で覆う悪魔の姿が揺れている。
『ぎ……ざま、待、で……』
まずい。
逃げなければ――。
悪魔の指先が届く寸前、震える足を駆り立てて部屋を飛び出した。
「はぁ、あぁ……」
悪魔に触れられた身体が鈍っている。足がうまく動かない。
それでも、逃げないと――。
「あそこからなら……」
この廊下の先に、人がくぐり抜けられそうな大きさの窓があったはず。
禍々しい色の空が切り取られた窓を開けようと、内鍵に手をかけた瞬間。
『誰が表に出ても良いと言った?』
抑揚のない低音――黒い粒子を纏った手が背後から伸びてきて、目前の窓ガラスにヒビを入れた。
耳にかかる、凍てつくような吐息を振り返ると。
再生しつつある金銀の瞳と視線が合った。
「ひっ……」
悪魔の黒い手が、「従」の契約印が刻まれた私の左手を握りしめた。
『死してなお退魔の力が使えるとは。肉体ではなく魂に宿る力ということか……素晴らしいぞローズマリーよ!』
ついに剥がれた化けの皮。
いや、ネコの皮か――。
この飾りない口調と態度、あの牢獄で出会ったネコ頭に間違いない。
「最初からおかしいと思ったんだ! 何を企んでいるのか言わないと、この血をアンタに飛ばすから」
隠し持っていたナイフで腕に傷をつけ、血の付いた手を構えるが。悪魔は怒るどころか、治りかけの顔で微笑んでいる。
「おっと、それはマズイなぁ。結構痛いんだよその血。治るのに時間かかるし」
「……っ、もうそのネコ被りはやめて」
「えー? だって素のままじゃ、君に好きになってもらえないでしょ」
この期に及んで何をいうのか。
惚けた顔を睨みつけると、悪魔は乾いた笑いをこぼした。
「まぁそこまで言うのなら、無粋だけど種明かしをしようじゃないか」
「……種明かし?」
「うん、君のために特設した『走馬灯シアター』でね」
たった今、悪魔は告白した。
これまでの態度には、何らかの打算があったことを。
それにしても。
この悪魔、本当に怒っていないようだ。
「行こうか、ロミ。僕のこともだけど、君もいつかは通る道だ」
「……はい?」
悪魔は答えず、掴んだままの腕をそっと引く。
あの笑顔の下で、いったい何を考えているのか――。
逆さ吊りの絨毯が続く廊下を抜け、悪魔は暗闇へと続く階段を降りていった。