28.すべての君を求めて
【かつて天使だったものの記憶】
悪魔に無慈悲で、生きるものに優しい娘。
こうして小さな手に触れていると、あの頃を思い出す――菩提樹の並ぶ田舎町で、娘を見守った日々のことを。
ローズマリー。
娘を初めて見た日は、今でもよく覚えている。
神の命で地上へ降りた俺の目的は、ひとつ。神に愛されし血を宿す娘の誕生を見届け、監視すること。
面倒だ。
なぜ能天使を束ねる俺が、使い天使の真似事をさせられるのか、理解が及ばない。
最初はそれだけだった。
それだけのはずだった。
「対象」の赤子が産声を上げたとき。特別なものは感じなかった。数多の生と死を見守ってきた天使にとって、人間の魂はすべて同じ。
聖なる血をもつ者の誕生は、100年に一度起こり得ること。
特別な血は、聖と悪を惹きつける運命にある。
神に叱られぬよう見張らなければ。
だが。
立ち上がり、己の意思で物を考えるようになった娘は強かった。
『おばあちゃん、あそこにいるのなぁに?』
悪魔の存在を認知できるようになってから、寄ってくる下級悪魔たちを、ためらいなく滅すようになったのだ。
恐れ知らずで、己の血を惜しみなく使う娘――「面倒だ」という感情が、少しだけ「面白い」へ傾倒していった。
『この娘、悪魔より悪魔だな……』
思わず、そんなことを口にしたのを覚えている。
だが悪魔には無慈悲な一方で、娘は生き物に優しかった。特に猫を好むのか、近所をうろつく野良を見かければ、膝に乗せ戯れていた。
『アンタはフワフワだね。ふふっ、撫でられると気持ちいい?』
あの無慈悲で小さな手に撫でられる猫を見て、何を思ったのか――俺は猫に擬態した。
『アンタ……美人。この辺じゃ見かけない顔だ』
『……』
優しい手と温度。生き物にのみ発せられる、娘のもつ本質の温かさ。一度知ったが最後、娘の熱を求めるようになった。
天使の姿では、触れられない。俺を見せられない。だから何度も低俗な擬態を繰り返し、娘の温度を感じていた。
そのときから、俺の中のなにかはズレていった。
娘が13歳になる頃には、娘を取り巻く世界は広がりつつあった。田舎町でただ過ごすだけの娘に、都から教会を訪れる若い男が囁く。
『都へ遊びに行かないか?』
悪魔よりよほど厄介だと、俺は思わず男に手を出しかけた。
そして、娘も娘だった。
悪魔を容赦なく滅する手で、自分に近づく男に、簡単に手を取らせてしまう。
『……ちょっと、興味あるかも』
閉鎖的な村にいる娘だ。外を知りたくなる気持ちは分かる。だが――あの手の心地良さを知るのは、俺だけでいい。
このとき初めて理解した。
俺にとってこの娘は、ただの「対象」ではないのだと。
しかし天使本来の姿を、人間に見せることはできない。ならば、また姿を変えるしかない――。
俺は娘と同じ年頃の、人間の少年へと擬態した。
『僕はエルマー。ハイクさんのところで引き取られることになったんだ……よろしくね、ローズマリー』
娘の近所に住む、子どものいない夫婦のところへ養子入りした。
許されないことだと分かっていた。
それでも、これで娘と言葉を交わすことができる。
『ねぇ、ロミ。僕は君の秘密を知っているんだよ』
悪魔に悩まされる娘に、強い悪魔を追い払う方法、雑魚の悪魔どもを寄せ付けない方法などを話すと。
『あなたにも悪魔が見えるんだ……!』
初めて見る、輝くような笑顔に焦がれた。
嘘は言っていない。
ただ、必要以上の真実を話す必要もない。
「会話すること」自体が目的だったのだから。
『今まで、家族以外のだれにも言えなかった。他の人に、頭がおかしいって思われることもあったけど……でも、エルマーは私と一緒なんだね』
娘にとって、誰にも言えない秘密。それを共有することで、あっという間に距離を縮められた。
偽物の肉体で手に触れると、娘が頬を染めるくらいに。
ふだんの態度は少し冷めていて、物静かな性格。しかし悪魔に対しては無慈悲な娘が、俺にだけ見せる顔――偽物の身体で触れるだけでは、足りない。
真の俺に対する言葉、視線、熱、すべてを手に入れたいと感じたのは、この頃だった。
『ロミは将来、結婚……とか考えてるの?』
『うん、当然。あと3年くらい経ったら、私も縁談とか受けなきゃいけなくなると思う』
中世の時代を生きる田舎娘にとって、未婚はほぼあり得なかった。何か事情でもない限り。
『そう、だよね』
『……エルマーは?』
『僕?』
菩提樹の下、触れるか触れないかの距離にある肩が、かすかに揺れていた。
そして熟れた実のように赤く染まった耳を見て、胸に穴が空いたような心地を覚えた。
娘は密かに、俺への期待を寄せている。
『僕は……』
生者と天使は結ばれない。
この偽物の身体で、娘の生涯に寄り添うことはできない。
だが、娘が死者になれば――。
最初は、娘が往生するまで待ち続けた。
どうせ瞬き程度の時間だ。
娘があの都に住む男に嫁いでも、己を抑え見守った。そして息を引き取る直前を待ち続け、迎えにいったが――稀有で神聖な魂をもつ娘は、一介の天使のものにはならなかった。
『生前はくろうしたことだろう、ローズマリー。これからは、我が元で楽につかえよ』
『……主よ、喜んで』
娘は死後、神に仕える身となってしまうのだと分かった。
神に裏切られたと感じたのは、これが初めてだった――。
『俺は、どうしたら……』
絶望の中、己の手のひらを見つめ気づいた。
俺には『反転』がある――無かったことを有ることにはできないが、存在した時間を反転させることはできるはずだ。
『……やるしか、ない』
未来を変えるほどの力だ。これをすれば、天使の力を消耗し、翼が穢れに染まると分かっていた。
この力を与えてくれた神にも、いずれ知られるかもしれない。
それでも――娘を手に入れるには、こうするしかない。
そうだ。
娘が、退魔の血を継がなければ良い。
父、母、祖母、祖父。彼らの運命に介入し、何度も運命を捻じ曲げた。娘の母親が変わることもあった。それでも――何度繰り返しても、娘はセージ家に生まれてくる。
娘が退魔の血を持って生まれることは、それほどに強固な運命だった。
すべてを巻き戻すたびに、俺が天使から遠ざかっていくだけだ。
『ならば……生まれた後に穢すしかない』
そんな考えが頭をよぎった頃。
神に俺の行いがばれた。
悪魔に堕とされ、500年冥界の檻へ幽閉されることになったが――そんなこと、どうでも良かった。
その事実を、また『反転』させれば良い。
天使から悪魔になったことは覆せなかったが、それはむしろ好都合だった。
『悪魔が素手で触れれば、退魔の血の力は薄れていく……ならば』
娘が俺と契約したくなる状況に陥るまで、何度も繰り返すだけ。
そうして何度巻き戻したか分からなくなった頃――。
『あなたもランドリーメイド? 私も!』
「聖女」という、ローズマリーと同じ珍しい血を持つ娘、ミシェルが登場した。
これだ。
ようやく、憎しみに苛まれる運命へ行き当たった。
かつてない好機に、さっそく娘の囚われた牢獄へ姿を現した。
そしてはやる気持ちを抑え、『良いのか?』などと寄り添うそぶりを見せ、契約を促す。
『愛欲の悪魔ルキフェルト、私と契約しろ!』
これで良い。
娘を得られるならば、何も惜しくなかった。
今、その娘が悪魔の手の中で震えている。
人間には理解の及ばない行為を繰り返し、ようやく手に入れた娘が、俺を熱と落胆の入り混じった目で見つめている。
『理解したか? そうして辿りついた、「悪魔」を受け入れた「娘」……それが「今」のお前だ』




