27. 清らかなる堕天
王宮の使用人部屋を模した、ミシェルの寝室。
古い部屋を審判の鐘の音が揺らすたび、ミシェルの翼は黒く染まっていく。
「ミシェル……!?」
私が触れたから、こうなってしまったの――?
でも私には、苦しそうにうめくミシェルを見守ることしかできない。
目の前に現れた光の玉は、無慈悲に、そして柔らかく輝いていた。
『ローズマリー。おまえの魂はすっかり退魔の力を失い、悪魔に身も心も染まっている』
「え……?」
ルキが私を抱くことで、退魔の血は穢されていった――男と女、老人と子ども、あらゆる声の混ざった神の言葉に、頭が真っ白になった。
それでも構わず、淡々と声が響く。
『「保護対象」として守っていた魂が、まさかその監視役の天使だったものに汚されるとは――』
神は声色ひとつ変えず、落胆した。
そういえば。
天界へ旅立つ直前のことが、頭をよぎる。北の悪魔の試練中、話を聞かなさそうなルキを止めようとした、退魔の血付きのキス。あの時、たしかに退魔の血が発動しなかった。
私の血の効力が、弱っていたなんて――。
「そんな……私、は……」
ルキはそのことを知っていたのだろうか。
真っ白になりかけた頭に、再び鐘の音が響いた。
『ことばは、もはや不要』
神の声に、鐘の音に、頭の奥が痺れる。
とっさにミシェルのそばへ寄った瞬間、眩い光が解き放たれた。
『地に染まりしものどもよ、堕ちろ』
床が消え、その下の雲が割れる。
神に見放された絶望と驚愕を抱え、ミシェルとふたり、地獄へ落ちていく――。
「ロミ……!」
呼び声に弾かれ、目を開くと。
「ミシェル……」
ぼやけた視界に、晴天のような瞳が映った。
ミシェルが私を、膝へ抱えてくれている。
「ここは……」
禍々しい色の空と、枯れ木だらけの荒野。たぶん地獄のどこかだろう。
そして彼女の広げる8枚の立派な翼は、灰色にくすんでいた。その惨状を目の当たりにして、ようやく頭が覚醒する。
「ミシェル! 私のせいで、あなたが……」
「いいのよ、ロミ」
彼女は翼が真っ白だった頃と、同じような笑顔を浮かべた。
今にも目から溢れそうな雫を、彼女の指がさらっていく。
「私はあなたのために天使になったの。だから、良いのよ」
「ミシェル……でも」
こうして話す間にも、翼が少しずつ黒く染まっている。堕天して悪魔に変貌しつつあるというのか――私が触れたせいだ。
「ロミ、今ならまだ間に合うわ」
間に合う――?
声が出ない。胸が苦しい。
ルキは私を騙していたのか。
私を愛しているふりをして、ただこの魂に執着していただけなのか――。
でも、私がミシェルを穢してしまったことは事実だ。
「わたし、私……は……」
「ロミ、いい? よく聞いて」
落ち着けさせるように、ミシェルの手が背中を撫でている。そして白い手が、私の手にそっと刃を握らせた。
これは――いつもは太ももに隠している、退魔のナイフ。
「あの悪魔を倒して」
「え……」
ルキを、倒す――?
「悪魔の心臓を貫いて、契約を破るの」
でも、私の退魔の力は失われているのではないか――声にならない疑問を抱えたまま、顔を上げると。
温かく、優しい熱が唇に重なった。
「ん……」
ミシェル、と紡ごうとした唇に、再び深く熱が重なる。
瞬間、身体が燃えるように熱くなった。血が全身を巡る感覚が、はっきりと分かる。
「私の『浄罪』の力が、一時的だけどあなたの力を戻したはず。いい?」
悪魔を倒すのよ――ミシェルの言葉が、張り詰めた胸に突き刺さった。
感情が追いつかないままに、「悪魔の屋敷まで送るわ」と抱えられた。
じきに、堕天使となったミシェルを魔役所が迎えに来るという。
「でも、私……」
『あの悪魔は時間を遡り、あなたが契約せざるを得ない不幸な目に遭う時間軸を探していたの』
『おまえの魂はすっかり退魔の力を失い、悪魔に身も心も染まっている』
ミシェルの、そして神の言葉が頭をよぎる。
でも――。
私は約束した。
たとえ悪魔だとしても、ルキを信じると。
そしてルキも、私を信じている――なのに。
「おかえりロミ! いやーもう100年待ったよ!」
「は……」
1人屋敷へ帰った私を、ネコ被りの悪魔が強く抱きしめた。
まったくいつもの調子で。
「もー、旦那様の嘘の単位大きすぎ。まだ3日も経ってないでしょうが」
そして、人型のまま迎えてくれたラット。
天界で起こったことが、すべて夢だったみたいだ。
でも――。
『あの悪魔は、肉欲だけであなたを捕らえようとしているの』
悪魔は人間を愛さない――ミシェルの言葉が胸に響いた。
まだだ。
ルキと話をしなければ。
本人の口から、ちゃんと聞かないと――。
「君の大好きなカブのポトフ、さっそく用意するね。ほら、ラットも手伝って!」
「はーい。ロミさんは部屋でお待ちください〜」
改めて考えれば、ここは地獄なのに。悪魔たちの住む家なのに。私は、ここが「帰る場所」であるかのように安心している――でも。
「うん……部屋で待ってる」
強く力の込められた悪魔の腕から、そっとすり抜けた。
悪魔が私のために用意した、広すぎる部屋――すっかり馴染んだベッドに横たわり、天井のベッドを見上げた。
「……ルキ」
隠しナイフに触れ、深く息を吐き出す。
もしミシェルや神の話が本当だとして、私は――。
そもそも。このナイフと血の力をもってしても、あれほどの悪魔を消滅させられるかは分からない。
「ロミ、お待たせ!」
妙に明るい悪魔が、温かい料理とともに壁をすり抜けてきた。
「……ノックしてください、ご主人様」
横たわったまま、ルキの方を見ずに言うと。
悪魔は静かに隣へ横たわった。
「あははっ。主人の前で無防備に寝ちゃってるなんて、危機感の薄いメイドさんだなぁ」
まるで愛おしいものを見るかのような、金銀の瞳――暗く鈍い光を放つ悪魔の目を、そんな風に感じるようになってしまった。
ルキの笑顔を見ると、胸がいっぱいになる。
「……私がいない間、ちゃんとお仕事行ったんですか?」
「うん、まだ主従ごっこは続くんだね。そりゃ行ったよ? 君に贅沢させるためにね」
私のために、魔役所へきちんと勤務していた。
悪魔は「褒めてくれてもいいよ」、とツノの生えた頭を差し出してくる。
そんな些細なことに、愛おしさを感じてしまう自分がいる――でも、彼の顔を見ることができない。
「そうだ! 今度船でも借りて、『魔素海岸』から冥界1周旅行にでも旅立たない? 『新婚旅行』ってことでさ」
「いや……結婚すらしてないのですが」
コイツが私のために行動して、私を楽しませようとしていることに疑いはない。
だから余計に、胸が締め付けられる。
『あなたの魂に執着している、あの悪魔との契約を破るの』
ミシェル。
私は、どうしたら――。
「……ねぇ」
話さないと。
「ルキがしたこと」について。
ルキの口から、聞かなければ。
「ん? どうしたの」
私を引き寄せる手を抱きしめ、ルキの腕で顔を隠した。
「ルキが私の運命を捻じ曲げたって……ほんと?」
音が消えた。
呼吸の音すらない中、隣の悪魔を振り返ると。
「君は、『僕だけは信じる』って言ったよね」
悪魔は寂しげに笑っていた。
ふとナイフに手を添える私を見て、「でも」と妖しい笑みを浮かべる。
「まだ、信じるには穢し足りなかったみたいだ」
「え……?」
パチンと音が鳴った直後。
部屋の上下が反転し、身体が天井のベッドへ落ちていった。
身体が動かない――金縛りに遭っているかのような状況の中、ルキの手が黒のタイを解いた。
「いやっ! やめて……!」
「やめるわけないじゃないか。ただ君を愛すだけだよ?」
エプロンと服が下へ落ちていく。
涼しくなった肌を、黒い手が滑る。
怖い――身体が勝手に震える。
ルキは怒っている。きっと、私の疑いを「裏切り」と捉えたのだろう。
でも。
「ロミ……愛してる。ただ、それだけなんだ……」
宙ぶらりんのまま、酷くされるかと思ったのに。
身体に触れる手は優しい。時々降ってくる口付けも、溶けるように甘かった。
「ルキ、私……」
ミシェルもルキも、私のために堕天してしまった。
ルキは私の魂へ執着して。
ミシェルは私の魂を救おうとして。
どちらの方が綺麗で正しくて、私の未来を願ってくれているのか、分かっているはずなのに――この悪魔が何を思って私を求めるのか、確認したい自分がいる。
「ねぇ……ルキ、教えて」
きっと信じるから、真実を知りたい。
吐息の合間に声を絞り出すと、ルキは手を止めてくれた。
「ルキが何度も時間を巻き戻してたって……ほんと?」
短い沈黙のあと。
ルキは、「ほんとだよ」と低く答えた。
「別の時間の私が……アンタのものにならなかったから?」
だから時間を巻き戻したのか。
そう訊ねると。
「たしかに、『僕のものにならなかったロミ』も中にはいたよ」
何でもないことのように、悪魔は笑った。
「え……」
甘い熱が、少しずつ冷めていく。
「そうなったら、仕方ないから壊すしかなかったけど」
何のためらいも、罪悪感もない瞳。
背中に走るゾクっとした感覚が、いつまで経っても治らない。
「どういうこと? まさか……」
殺したの――?
声に出せたか分からないほどの小声で、そう訊ねると。
「まさか!」、とルキは笑って首を横に振った。
「あぁ、でも。それに近いかな」
黒い手が、薔薇の檻のように身体へ巻きついた。
何にも守られていない身体が、スーツ越しの冷たい身体に、強く抱きしめられる。
「生前の君が手に入らないのならば、地獄に堕とせばいい」
そんな――。
もはや声は出なかった。
ナイフは、とっくに下へ落とされている。
『俺がどうやってお前を手に入れたのか。教えてやろう、ローズマリーよ』
ネコ頭の悪魔が、歪に笑った。




