26. 愛しき懺悔
「ミシェル……だよね?」
膝を折り、私と視線を合わせる天使――彼女、いや彼は、銀色に変わった髪を揺らしはにかんだ。
「ロミ、会いにきてくれたのね! 私も会いに行きたくて、ちょっと頑張っていましたの」
ミシェルは私を子どものように抱き上げると、8枚に分かれた巨大な翼を広げた。
このままミシェルの屋敷へ行くという。
「ちょっと頑張ったって……この姿は?」
「小さな使い天使のままでは、会いに行くどころか、まともに言葉も交わせませんから」
なんとミシェルは、この短期間で能天使まで昇格したという。
能天使にならなければ、神から『ギフト』を賜れないと。
「ギフト……?」
「着いたら説明しますわ」
ミカエルやルキの屋敷と同じ、白い箱型の家に着くと。ミシェルは、まだ物の少ないリビングへ連れていってくれた。
細くも力強い腕から、真っ白な椅子へようやく降ろされる。向かい合ったミシェルの青い瞳だけは、変わっていない。
「私、あなたの魂を悪魔から救うために、天使になったの」
「え……?」
悪魔に囚われた、私の魂を転生させるため――元々聖女としての力を持ったミシェルは、『浄罪』のギフトを神から賜ったという。
「天使のギフトは、悪魔の権能みたいなもの……ってこと?」
「ええ。私の『浄罪』は、傷だけでなく魂の穢れをも浄化する力なの」
魂の穢れ――。
悪魔との契約を、なかったことにできる。
「このまま悪魔に囚われ続ければ、あなたは永遠に『過去の人間』のまま。もう二度と、巡ることはなくなってしまうのよ」
きっと、地獄へ落ちたばかりの私ならば、その手にすぐにでも縋りたくなっただろう。
でも、今は――言葉が出ない間にも、ミシェルは「それにね」と笑った。
「魔役所でお会いした時、本当はすぐにでもこう言ってあげたかった……『私がいるわ』って」
言葉をあまり交わせなかった、あの時。
どうして天使になっているのか、なんで男の姿なのか、聞きたいことはたくさんあった。
もどかしさを感じたのは、確かだ。
「もう安心よ、ロミ」
悪魔の支配から抜け出せる。
そう言って、ミシェルは手を差し伸べてくれた。
でも、私は――ミシェルと話すためにここまで来た。ルキと離れるなんて考えられない。
ルキは悪魔だけれど、私への愛は確かなものだと信じられる。彼は私のために堕天してしまうほど、私を愛してくれているのだから。
だったら、私も「私の永遠」を捧げる覚悟はある。
きっと説明すれば、ミシェルも分かってくれるはずだ。
それより、今は――。
「あのね、ミシェル」
会いに来たわけを、声の震えをおさえて吐き出した。
悪魔の権能で、ミシェルとルイス王子を引き離したこと。牢獄まで会いにきてくれたミシェルを、話も聞かずに追い返したこと――すべてを謝罪したい。
「ごめんなさい……っ、ミシェル」
目を逸らしてはいけないのに。
視界を埋める涙が、勝手に溢れ出る。
死んでもずっと、胸に残っていた言葉――それを今、ようやく告げることができた。
「ロミ……」
ミシェルの柔らかい響きが、余計に胸を刺す。
「悪魔と契約したあなたの罪は、私の罪によって引き起こされたもの。謝るべきは、私の方なのよ」
ミシェルも告白した。
自分が女であったが故に、ルイス王子に心が揺れ、大切なものを見失ったと。
「だから今、私は男の姿をしているの」
「ミシェル……」
「ロミ、ありがとう」
音もなくテーブルを越えた、ミシェル。
その腕に、そっと抱きしめられた。
「今の私は人ではありせんが……真実の愛に気づかせてくれたのは、あなたなの」
真実の『愛』。
耳に残る、甘く澄んだ響き。
狂いそうなほどに混ざり合っていた、愛と憎しみが溶けていく。
私もミシェルに応えたい――そう思って、腕を背に回そうとした瞬間。
『その手で天使に触れるな』
どこかで見た文字が、頭をよぎった。
そうだ。あれはルシファーの忠告――なぜか、「守らなければ」という気にさせられる。
伸ばした腕を、そっと引っ込めると。ミシェルの手も離れていった。
「せっかくですから、ここでしばらく暮らしません? 話したいことが、一生分あるの」
触れてはいけない。
でも――。
「……私も、もっと話したい」
「では、こちらへ」
もう夜も遅いから――微笑むミシェルに案内されたのは、懐かしい寝室だった。
「ここ……」
王宮メイド時代、ミシェルと相部屋だった寝室。
古い壁紙や床の傷まで、そのままだった。
「どうして?」
「私のすべてがここにあるの。ほら、ロミも」
ミシェルに腕を引かれ、軋むベッドに仰向けで転がった。
暖かい――話をしたまま、こうして同じベッドで寝たこともある。
こちらを嬉しそうに眺めるミシェルから、古く懐かしい天井へ視線を移した。
「……私が死んだ後、ミシェルはどうしてたの?」
自分の不幸ばかりを嘆いて、これまで彼女のその後を気にしたこともなかった。
「私は田舎に戻って、シスターになりましたわ。生涯ね。聖女として、治癒の力を、貧しい人々への奉仕に捧げたのです」
そんな生前の行いを見ていた神が、地獄行きだったはずの魂を救い上げた――そして彼女は天使になったと、ミシェルは静かに語った。
「……うん。ミシェルは天使が似合ってる」
改めて隣を見ると、美しく神々しいに姿に目を奪われる。
「見過ぎですわ」と笑うミシェルは、やがて身体ごとこちらを向いた。
生前は私よりも細かった腕が、今は骨が太く筋張っている――その変化に、つい見とれていると。
「私、今男ですの」
「え……?」
耳元で囁いたミシェルの身体が、上に覆い被さってきた。
熱い――身体に宿る温度も、私を見下ろす視線も。
「今ならあなたのことを、強く抱きしめて差し上げられますのよ」
いったい、どういうつもりなのか――。
「あなたの心に暗い影が根ざしているのは、最初から分かっていたわ」
なんのことか、と問いかける前に、「解放して差し上げます」とミシェルは試すように笑った。
大きな手が、私の指に絡もうとする。
「さ、触っちゃダメ……!」
ルシファーの言葉も気にかかるが――ルキのことを考えると、触れさせてはいけない気持ちになる。
ミシェルの言う通り、彼女は今男性なのだから。
できるだけ顔を見ないよう、視線を逸らしていると。心地よい熱が、頬から首筋にかけて降りていった。
「ねぇ、こっち向いてくださらない?」
彼女――いや、彼の指が、私の耳を撫でている。
彼とは違う、触れるか触れないかのような優しい指。
でも、私の欲しい熱とは違う。
「いい? 穢れを浄化するには『私の体液』を、あなたへ捧げなければならないのよ」
「え……」
どういうことなのか。
その先を尋ねる前に、腹の下をさすられた。
まさか――。
耳まで熱くなった顔を、ベッドに埋めると。「優しくしますわ」、と囁かれた。
ミシェルのことは今でも想っている。
でも。
『必ず僕のところへ帰ってきて』
ルキとの約束を、私は果たしたい。
「ねぇ、ロミ……私の「愛」で、どうかあなたを『浄化』させて」
「……私は」
目覚めても、相変わらず空は黄昏時のまま。
隣で寝息を立てるミシェルの顔を眺めながら、ぼうっとする頭を揺り動かした。
こうして改めて見ると、「本当に男になっている」と実感する。
「あら。見惚れてくれているの?」
目を開けずに、ミシェルは呟いた。
思わず視線を逸らすと、彼女はゆっくり身体を起こす。
「……うん。やっぱりキレイ」
「なのに、お誘いを断ったのね」
「今は男性だから、ロミを愛せるのに」――昨晩の言葉を繰り返すミシェルに、どんな顔をしたら良いのか分からなかった。
ミシェルを拒んだ理由は、もう彼女を愛していないからではない。
私はルキの元へ帰らなければならないから――。
「あなた……もしかして、悪魔に心を許したの?」
止まっているはずの心臓が、小さく跳ねた。
言うなら今しかない。
ルキは悪魔でも、私を想ってくれている。人間の私に寄り添おうと、必死になってくれた。
そして私のために堕天までしたルキを、悪魔だからと無下にできない――。
「ミシェルが私を解放しようとしてくれてるのは嬉しいけど……地獄も悪くないかなって」
言葉はない。
代わりに、冷たいため息が降ってきた。
「あなたは、あの悪魔が何をしたのか知らないのね」
「え……?」
息をひそめたミシェルは、私のまったく知らないことを語り出した。
ルキが時間を巻き戻したことが原因で、私の運命が変わったと。
「時間を、巻き戻す……?」
「あの悪魔の権能、いえ、天使時代からルキフェルトのギフトは『反転』」
それはあのネコ頭がいつもするように、部屋を上下逆さまにしたり、人や物を逆さづりにする程度の力ではない――「事象」すら反転させるほどの力がある、とミシェルは言う。
「あの悪魔は時間を遡り、あなたが契約せざるを得ない不幸な目に遭う時間軸を探していたの」
すべては神から聞いた話、とミシェルは窓から見える巨大な塔を見据えた。
「そうまでして、あの悪魔はロミを手に入れようとした。それをあなたは、純粋な『愛』だと言えるのかしら?」
愛。
胸へ重くのしかかる響きに、潰されそうになった。
まさか、そんな――ルキが本当にそんなことをしたというのか。
「待ってよ! そんなの、私……」
信じられるわけがない。
言葉にならない声の代わりに、身体が震える。
「ロミ、どうか落ち着いて」
「やめて!」
私をなだめようとする、ミシェルの腕をとった瞬間。
「あ……」
天使に触れてしまった――そう気づくと同時に、鐘の音が鳴り渡った。
頭の内側から響いているかのような、荘厳な響き。
聞き覚えのあるそれが鳴るごとに、ミシェルの純白の羽が、くすんでいく。
「これは……ロミ、あなた、そこまで悪魔に……」
「えっ……どう、して……?」
この光景を、私は見たことがある。
これは天使が悪魔に落ちる瞬間――。
『けがれに染まったか。聖女の魂をもつものよ』
審判の鐘とともに現れたのは、眩い光の玉。
いつか見た、天上におわす神だった。




