25.甘やかな楽園
真っ白な霧の中、聖書から顔を上げた天使。
彼女は「私を待っていた」と慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「ミカエル様、ここは……?」
「地獄からの門を開いた者の前に現れる、天地の境」
よくいらっしゃいましたね――そう言って、ミカエルは光の粒子が跳ねる翼を広げた。
彼女は私を引き寄せると、赤子のようにそっと抱えて飛び上がる。
「私が天使に就任してから1000年近く経ちますが、四方の悪魔すべてから札を受けた者は初めてです」
「……そうなんですか」
「懐かしい顔へ会いにきたのでしょう? 天界までご案内します」
なんだか、まだ頭がぼうっとしている。
ついさっきまで、悪魔の腕に抱かれていたのに――今は天使に抱えられ、天界へ向かっているなんて。
「ほら、見えて参りましたよ。あれが善なるものの都です」
霧が晴れ、黄昏の空の下に広がる都市が見えてきた。
死後の善良な魂が、天使とともに住まうところ――天界の話は、生前の礼拝で何度も耳にしている。
「キレイ……でもなんだか、思ったのと違いますね」
「ふふっ、貴女のような中世の人間にはよく言われますよ」
地獄同様、天界も現代の文明に合わせてアップグレードしている、とミカエルは言う。
広大で平坦な土地にそびえるのは、地獄の都市にあるのと似た高い塔――高層ビルというのだったか。ただ、あっちの乱雑とした感じとは違い、清廉な白い塔が規則正しく並んでいる。
「滞在先の家は……貴女には、アンのいるところが一番でしょうか? それとも――」
「そういえば、祖母をご存じなのですか?」
「ええ! 私たちの家に着いてから、詳細をご説明します」
私たちの家――?
問いかける間もなく、ミカエルは急下降しはじめた。豆粒のような家々が並ぶ、地上へ向かって降りていく。
「貴女の祖母は、私の屋敷にいるのです」
「ミカエルさまっ!」
白い箱型の屋敷前に足をつけた途端、1人の女性が玄関から飛び出してきた。
突然、ミカエルに抱きついた彼女――蜂蜜色の豊かな癖毛を揺らし、天使の羽を労るように撫でている。
「お仕事まだ終わらないの? アン、夜が待ち遠しい〜」
見覚えがあるような、ないような――。
ミカエルが見たことのない照れ顔をしているせいで、頭が回らない。
「アン……孫の前ですよ」
「えー、なんのお話?」
こちらを振り返ったのは、2、30代くらいの女性。
やっぱり見たことがある。
というか今、「孫」と言わなかっただろうか。
「まさか」
「アンタだれよ? アタシのミカエルさまとご一緒してるなんて…………あ」
彼女の視線が、メイドの制服から顔に移る。私と同じ、ヘーゼルの瞳が丸くなった。
「……ロミ?」
「アンおばあちゃん……なの?」
祖母――と呼んで良いのか分からないほどに若い彼女は、口をパクパクさせたまま目を見開いている。
やがて「本当にロミ……なのかい?」と、生前の口調に戻った彼女は、こちらに背を向けた。
「アン? なにを」
「止めないでおくれ! 転生局に『転生申請』出しに行くんだよ……孫にあんなところを見られて、正気でいられるものか!」
あれは確かに衝撃だったが、まだ何も話せていない。
話したいことがたくさんあるのに――。
発狂したように叫びながら、若い祖母は雲の隙間から飛び降りようとしている。
「待ちなさいアン! 転生すれば、再び死なぬ限り私の姿が見えなくなるのですよ!?」
「うぅ……それはイヤだ」
これは一体、どういうことなのか――。
祖母を押さえるミカエルは、深いため息とともに振り返った。
「私と貴女の祖母アンは、天界の婚姻制度『パートナーシップ』を結んだのです」
「それは……結婚したって、こと?」
地獄にもあった、悪魔と人間の婚姻制度。まさか天界にもあるとは――そして祖父一筋だった祖母が天使と結婚したことに、まだ頭が追いつかない。
ようやくこちらへ向き直った祖母は、頬を真っ赤に染めながら涙を拭った。
「……前に電話で話した通りさ。お前のおじいさんは、私がここへ来た時にはすでに転生していてね。お前の父さんもだ」
「……おばあちゃんは、転生しなかったの?」
すると祖母は照れたように微笑み、私に向けて腕を伸ばした。
柔らかくて、暖かい――おばあちゃんの大好きな花の香りがする。口調も姿も変わっていて驚いたが、この匂いだけは変わっていない。
「私は、この姿のまま天界で、お前を待つことに決めていたんだ」
「私を……?」
私のしたことを、生前おばあちゃんは許してくれなかった――誇り高き退魔師、その孫が悪魔に魂を捧げたことを許せないのは、当然だが。
「よく会いに来てくれたね、ロミ。悪魔の試練を乗り越え天界への門を叩くまでに、さぞ苦労しただろう」
「……おばあちゃん」
でも、と祖母は私の身体を優しく離した。
「待ちくたびれてね、アタシも少しは変わったのさ」
そう言って振り返った先のミカエルは、誇らしげに笑っている。
「どうせ死んだ後のご褒美期間だ。おじいさん以外の素敵な方に出会って、少しは夢を見ても良いんじゃないかってね」
「……うん。私も、そう思うよ」
暖かい手で私の頬を包み込むと、祖母は涙の残る目を細めた。
「悪魔の奴隷になるって聞いた時は、気が気じゃあなかったが。妙な悪魔に好かれたんだね、ロミ」
「え……?」
幸せそうだ――祖母の言葉に、顔が熱くなった。
『良かった。君が今、幸せそうで』
「私の悪魔」の声が、頭の中に反響する。
まだ、なのに。
天界に来たのは、ミシェルと会うため。生前の罪を赦し赦されるため――心の底からの幸せを感じるには、まだ早い。
「本当に、私たちの屋敷でなくて良いのですか?」
「はい。おばあちゃんには、また改めて会いに行きますから」
新婚さんの邪魔をするのは悪い気がする――というのは、建前で。ミカエルにデレデレの祖母を見るのが少し辛い、というのが本音だが。
私が天界に滞在する間の宿を、ミカエルは手配してくれた。
「ここは……」
ミカエルの屋敷と見た目は変わらない、白い箱型の建物。でも何となく褪せていて、古い感じがする。
「ここはルキフェルト様が、天使時代に住まわれていたお屋敷です」
「ルキが……?」
今は誰も使っておらず、ミカエルが時々掃除をしに来ているという。
「契約者が滞在するのであれば、ルキフェルト様も納得なさるでしょう」
「あの、私ミシェルに……」
「分かっています、ですが」
ミシェルは今、大事な試験中。
終わったら会いに行かせると言い、ミカエルは巨大な翼を広げた。
純白の羽が黄昏の空へ溶けていくのを見守り、白い箱型の屋敷を振り返る。
ミカエルから預かった、銀の鍵を使って扉を開けると――足の踏み場がないほどに、本がなだれていた。
「わぁ……掃除しがいあるな」
ミカエルが掃除に来ているというのは本当で、塵はまったくない。それでも、開いたままの本や倒れた本棚がそのまま放置されていた。
たぶんルキを尊敬するミカエルは、ルキが散らかしたものを「散らかっている」と判断しなかったのだろう。
「……アイツ、こんなに本読んでたんだ」
ルキが擬態していたエルマーは、いつも聖書を読んでいたけれど。ここにある本は、「小説」「専門書」「絵本」など、ジャンルがごちゃ混ぜだ。
ひとつずつ表紙を眺め、本棚に戻す。
天使時代の、ルキの痕跡――神に仕える者としての顔以外に、人間の書いた物語をたくさん収集していたらしい。
中でも多い「恋物語」を開いてみれば、エルマーの振る舞いを思い出した。それに、私が逆さ吊り屋敷に住み始めたばかりの頃のことも。
『快適な寝室、豪勢な食事、そして快楽! 人間を堕とすには効果抜群だろう?』
あのプリンセス並みの待遇は、経験ではなくここから学んでいたのかもしれない。そう考えると、少し笑えてくる。
「ルキ……」
今は天界にいるのに、悪魔の顔が頭から離れない。
でも、今はミシェルのことだけを考えないと――。
本があらかた本棚へ戻り、やっと見えるようになった窓へ視線を移したところ。
「ごめんくださいませ」
あの、甘く鼻にかかった声――。
「はい……」
玄関の扉を開け、暮れつつある空の下に出ると。
「お待たせいたしましたわ、ロミ」
8枚の巨大な羽を広げた天使が、見惚れるような笑顔を浮かべて立っていた。
知らない天使――いや、たぶんミシェルだ。
彼女は約束通り、会いに来てくれた。
それも以前魔役所で出会った時とは違う、神々しく美しい大人の天使の姿になって。




