24.ネコの下の下
ミシェルの姿で触れる悪魔は、いつも以上に優しかった。
繊細で小さな手指、柔らかい唇で、蕩けるような快楽を植え付けてくる。
そして――彼女の声で、偽りの愛を囁くのだ。
「ロミ。私、ずっとこうしたかったの」
「……やめ、ろっ」
私は、ミシェルとこういう関係になりたいと思ったことはない。
彼女への気持ちはもっとささいで、純粋な尊敬、憧れ、胸の内から溢れる「好き」の気持ち――手と心を繋げるだけで、満たされるようなものだ。
「強情ですわねぇ。身体はこんなにも、私を求めてくれているのに」
それは違う。ミシェルの顔をして喋るコイツに、身体を変えられてしまったから――そうでなければ、彼女に対して、こんなにも浅ましい情を抱くはずがない。
「ねぇ、覚えているかしら? 私たちが出会った日のこと」
身体に触れる熱や感触が偽物でも、思い出してしまう。
『あなたもランドリーメイド? 私も!』
彼女に初めて出会った時の笑顔――生涯忘れない「傷」であり、「宝物」。
それから、お互いの秘密を打ち明けた時の高揚感。広間の掃除で競争した日々。
他にも数えきれないくらい、楽しかったことがある。
王宮メイドとして過ごした3年間は、振り返れば幸せだった。ルイス王子のことさえなければ――。
ミシェルの目をした悪魔と見つめ合うと、あの時の憎しみが蘇る。
魂の面接室でルイス王子を許せたはずなのに。
「許したい、のにっ……許してほしいのに……」
「そう、まだ迷っているのね?」
まるで身体同士が一体化するように、念入りに溶かされる中。偽物のミシェルが、唇で耳をなぞった。
「私は許すのに」
でも、と甘い声が続く。
「牢屋まで会いに行った私に、あなた何て言ったか覚えてらして?」
『アンタの言うことなんて信じない』
肌を裂くような冷たい響きに、身体が震えた。
自分で言ったことなのに。
「それでも、私はロミを信じたいの。誰よりも、『愛している』のですから」
嘘と分かっている。ミシェルの言葉ではないと、分かっているのに――。
「私は……悪魔の力で、ミシェルと王子の仲を……引き裂いた」
許されたい。
快楽の波に飲まれた頭が、ただそれだけを望んでいる。
「それにね、ロミ。私だって許されたいの」
私への嫉妬心から、王子を焚きつけて魔女と告発したことを――ミシェルは震える声で言った。
「わ、私だって……っ」
許したい。
許し、許されて、もうこの地獄から解放されたい。
「だったら……どうか、あなたもおっしゃって」
私を愛していると――。
ミシェルの言葉が、甘く響く。
「私、は……」
ミシェルの「愛」に応えて、楽になりたい。
でも、そもそも――発そうとしても、言葉が喉の手前で引っかかる。
どうして――?
実のところ私はもう、ミシェルを愛していないのか。
いや、違う。
たしかに彼女を憎み、愛している。片時も忘れないほどに。
でも――それ以上に、私の心と身体を占めているのは。
「……っ」
「さぁ、言ってちょうだい。私を『愛している』と」
愛の言葉を言うよう仕向けられるたび、浮かぶのはネコ頭の悪魔だった。
強引で意地悪に見えて、実は寂しがり屋で繊細なネコ被りの笑顔が、心に強く焼き付いている。
「……あぁ、そうだったんだ……」
おかしくなりつつあることは自覚していた。
でも、いつの間にか取り返しのつかないくらいに、悪魔への想いが膨らんでいた。
いや、悪魔じゃない。
私のほとんどを奪って離さないのは、「ルキ」という存在――。
「……好き」
気がつけば、想いが口からあふれていた。
私を弄ぶミシェルの手が止まる。
肌に触れる熱は夢のように冷めていき、凍てつくような悪魔の温度が戻ってくる。
『嗚呼……残念だ、ローズマリーよ。ミシェルへの愛を口にした貴様の試練は、失敗――』
「違うの!」
沈黙する、ミシェルの姿のルキ。
偽物の顔を真っ直ぐ見つめ、震える唇を噛んだ。
『何が違うというのだ! 貴様は誘惑に負け、ミシェルへの愛を口走――』
勘違いの悪魔を黙らせるため、退魔の血に濡れた唇で、荒い息を吐く唇を塞いだ。
でも。
ジュッと音がしただけで、ネコの顔は溶けない。
「あれ……」
退魔の血が、効いていない――?
これはどういうことなのか――問い詰めたいところだが。
『違う……とは、どういうことだ』
今はルキの方が私の言葉の先を待っていた。血に濡れた唇に、指を当てて。
これは、覚悟を決めるしかない――。
「だから、『好き』っていうのは」
アンタがってこと――観念して、そう呟いた。
ミシェルではない。ルキに向けた言葉だ。
『俺を……』
偽物のミシェルが、次第にルキ本人の姿へ戻っていく。
『……そうか。それなら、試練は合格だ』
素で戸惑っているのだろう。
そんな様子が何だか可愛く思えて、思わずフワフワのネコ頭を抱きしめた。
「『優しいのを覚えてて』とか、『酷いことをする』って……試練のこと、だったんでしょ?」
この悪魔は私情を一切捨て、「試すもの」に徹しようとしていた。
それでも――。
「アンタの手、優しかった」
ありがとう、と消えそうな声で囁くと。悪魔の腕が背に回り、強く私を抱きしめてくれた。
『試練を課す姿の俺は、「その者が最も愛するもの」の姿になる。俺が本来の姿に戻ったということは……』
私の心がルキに傾いた証。
悪魔の声が、少しだけ柔らかくなった。
「……ねぇ、やっぱり今教えて。アンタが堕天した理由」
『ロミが天界から帰ったら話すよ』
ルキはそう言っていたが、もうある種の予感を覚えていた。
人間の女――「対象」と呼ばれる存在がらルキの堕天理由だと聞いたが。
「それって、もしかして私……?」
そう指摘しても、ルキは答えなかった。
ルキが堕天するほどに愛した人間がいた――最初はその事実だけ見て、心を焼いていたが。これまでの違和感を束ねると、自ずと答えは見えてきた。
「映画を見せられた時から、ずっと引っかかってた。最後の牢獄で、アンタは最初から私の名前を知ってたみたいだったから」
それは、あそこに現れる前から私を見ていたってことだ。
「それにアンタ、言ってたよね? 私のこと、生まれた時から見てたみたいなこと」
バースデーパーティーの時の、あの言葉で察した。
「……もしかして。消えちゃった『エルマー』も、アンタだったの?」
金銀の瞳は、瞬きひとつしない。
少しの沈黙の後。
深いため息とともに、ルキは私の頭を抱いた。
『ああ、そうだ』
やっぱり、初恋の彼はルキだった――。
試練の緊張と痛みが、嘘のように消えていく。
ルキを抱きしめる手に力を込めると、「良かった」、と自然にこぼれた。
「……いなくなって、なかった」
黒い皮膜に覆われたような手を取り、指を絡める。
握った手をどこか懐かしく感じたのも、魂が傷つくことを憂うエルマーとルキの言動が重なったのも、全部繋がった――。
「どうして早く言ってくれなかったの?」
きっとルキがエルマーだと知っていたら、私は最初から心を許していたのに。
そう告げると、ルキは喉を鳴らしつつ牙を見せた。
『お前は最初に、「悪魔を信じない」と言った。記憶にあるか?』
ふたつ目の契約を交わした時のことか。
固まった首を、なんとか縦に振る。
まさか、ルキは――。
『信じない。私はアンタたち悪魔のことを、何ひとつ』
あの時の私の言葉で、事実を告げることをためらったというのか。
まだ、ルキを悪魔の中の1人として見ていた時だから――なんて、言い訳はできない。
『怖かった』
「……え?」
『お前に「信じられない」と言われることを、俺は恐れていた』
そんな――。
『だからこうして、お前の愛を確信するまでは……かつて天使だった俺が、お前に何度も会いに行っていたのだと口にはできなかった』
「ルキ……」
私は悪魔を「誠実とは程遠い」と言いながら、悪魔すべてを一緒くたにした。そして結局、ミシェルの時と同じ――悪魔と人間関係なく、あの時の私は何者も信じていなかったのだ。
「ごめん……」
かすかな謝罪に、ネコ頭がぴくりと動いた。
「悪魔の言うことは、これからも信じない……でも。これからは……ルキの言うことを、私は信じるから」
「……ロミ」
顔をくすぐるフワフワの毛が消え、ルキは人の顔に戻った。
金銀の鈍く光る瞳に、人間の熱は見当たらない。
でも――私を捉えて離さない瞳に、強く惹き込まれる。
「だったら、改めて言わせてよ」
軽く唇が触れた。
「愛してるよ、ローズマリー」
甘く重い感覚の中に浸った身体が、目を覚ますと。
そこは真っ白な霧の中だった。
「え……どこ、ここ」
逆さ吊り屋敷じゃない。誰もいない。
ルキはどこに――。
『必ず僕のところへ帰ってきて』
その言葉だけが、頭に反響した。
手のひらには、「東」、「西」、「南」、「北」――すべての文字を合わせた札があった。
「すべての札が鍵となり、天界への道が開かれました」
聞き覚えのある、荘厳な鐘の音のような声が響く。
「天と地の境目は『どこか』にあるのではなく、渡る資格を持つ者のところへ現れるのです」
「だれ……?」
白い霧の中に揺れる、純白の衣が見えた。
真っ白な空間にある、一脚の椅子。そこへ優雅に腰掛けた天使――ミカエルは、『聖書』から私へ視線を上げた。
「お待ちしていました、人間の少女――いえ、アンの孫娘よ」




