22.ハッピーバースデー
私が、過去を変えた――?
「待って、あれは過去の幻じゃ……!」
「そんなこと、誰が言ったの?」
ルシファーの権能は、未来の者を過去へ誘う強力なもの。
全てのものに関わるような未来は書き変えられないが、一部のものに関わる未来は変えられる――ルキはいつも以上に回る口で、そう説明した。
「そんなことって……」
「でも事実さ。あそこに君が現れたことで、『神に権能を制限される』未来が変わったんだ」
そんなこと、アリなのだろうか。
「私が、ルキの未来を……?」
微笑む悪魔の言葉を、まだ信じられない。
疑問符だらけの頭を置き去りにして、私の手の中には、いつの間にか「西」と書かれた札が入っていた。
「……あれ?」
半透明な札の表面に、文字が現れた。
『その手で天使に触れるな』
たぶん、この札をくれたルシファーからの言伝。
どういう意味だろうか――。
「ん? せっかく札が手に入ったのに、どうしたの?」
ルキには見えていないらしい。
話すべきか悩む間もなく、文字は消えてしまった。
「ううん……何でも」
それより今は、聞かなければいけないことがある。
「ルキが堕天した理由って、なんだったの?」
悪魔の顔から微笑みが消えた。
私の肩を掴む黒い手に、力が入る。
人間の女が原因で堕天した――ジェニミアルは、そう言っていたが。
「神様が『対象』って呼んでたのが、その人……なの?」
尋ねながら、胸が鈍く痛むのを感じた。
この悪魔は、地獄に落ちて以来、なぜか私に執着していたのに。
ルキが天使としての地位を追われるまでに愛した人間がいた――その事実に、なぜか息が苦しくなる。
「ロミ……」
肩を掴んでいた手が、私の身体を引き寄せた。
抗いたいのに、抗えない。
「ちょっと、誤魔化さないで――」
「ロミが天界から帰ったら、話すよ」
私を信じて待つ――悪魔は冷たい頬を寄せ、私を腕の中に包み込んだ。
「なんで? アンタが『愛した』のは私じゃないんでしょ。どうしてそんな……信じる、とか言うの……?」
こんなこと、言うつもりなかったのに――目の奥が熱く潤む。
「僕が愛したのは、『前』も『今』も君だけさ」
そんなの嘘だ。
私の前に初めて現れたとき、コイツはもう悪魔だった。
「さて、もう満足かい?」
「はぁ……?」
せめて涙だけは見せたくない。
笑う悪魔を、きっと睨みつけると。
手に太い指が絡み、「西」の札がベッドへ滑り落ちていった。
空いた手に、冷たい唇が触れる。
「……っ」
指を甘噛みする悪魔を見下ろすと、強い金銀の瞳と視線がぶつかった。
「『愛してるよ』、ロミ……今からそれを証明してもいいかな?」
まるで私の意思を尊重するかのような問い。
もう何度も、これに騙されてきた。
「うん……」
そして「契約上仕方なく」、ではなく、悪魔の優しさに騙されてもいいと思ってしまっている。
「ルキのこと、もっと……知りたい」
こんなこと、許されないはずなのに。
私の中に流れる血も、大好きなおばあちゃんも、憎くて愛しいミシェルも、みんな許してくれるはず、ないのに――この悪魔の「今」を、独占したい自分がいる。
震える指先を握りしめ、ルキの首に腕を回した。
悪魔の指先が、一瞬止まる。
『ローズマリー……今から、お前に俺を刻みつける』
被っていたネコを完全に脱いだ悪魔は、性急な指で耳をなぞった。
そして。
『もう少し……もう少しで、お前は……』
「なに……んむ」
疑問の続きは、凍てつくような吐息と熱い感触に溶かされた。
悪魔にされるがまま。
そんな状況が嫌で、少し驚かせてやろうとしただけなのに――それが自分を苦しめることになるとは、思いもしなかった。
「まさかロミが、あんなことしてくれるなんてなぁ〜! つい本気出しそうになっちゃったよ」
「べっ、別にアンタのためじゃないし……」
私がしたかっただけ。
その言葉を、静かに飲み込んだ。
「でも」
丁寧に胸のタイを結んでくれている悪魔の横顔を見上げ、ため息を吐く。
「あんなに優しいとか、アンタじゃないみたい……」
本当に嫌だと思ったとき、今夜のルキは止まってくれた。
そして甘やかすように、何度も口付けてくれた――。
「おや、激しい方がお好みだったかな?」
「なっ……!」
からかうように笑うルキの肩を叩こうとしたが、腕が上がらない。代わりに思い切り、顔を逸らした。
もし。
もしもの話だけれど。
恋人がいたら、こんな風だったのだろうか――。
「ねぇ、ロミ」
「なに」
そっぽを向いたまま、小さく答えると。
熱の残る指先が頬を撫でた。
「優しい僕を、覚えていて欲しいんだ」
「……なに、それ」
「この後、君に酷いことをするからね」
ふと顔を上げると、悪魔はいつも通りに微笑んだ。
「酷いことって……?」
悪魔は金銀の目を細める。
いったい何を企んでいるのか――。
『お呼びでしょーか、旦那様』
突然の声に身体が弾かれた。
なんとなく聞き覚えがあるような、中性的な声だ。
「だ、だれ……?」
ふやけた顔を引き締め、まだ重い身体を慌てて起こしたが――やっぱり誰もいない。
「君ねぇ、ちょっと早くない? 僕のロミがとろけちゃってる顔、そんなに見たかったの?」
『旦那様が呼び出したんでしょーが』
ルキは床を見つめて話している。
その視線を追うと――。
「……ネズミ?」
前足を上げて床に立っているのは、紫色の毛のネズミ。
ルキがネズミを拾い上げ、黒い息を吹きかけると――ネズミは瞬く間に大きくなっていった。身体は現代風の学生服を纏い、顔もネズミ頭から少年に変わっていく。
頭から生えた丸い耳さえなければ、人間と変わりない姿だ。
「はー……元の大きさに戻るの、いつぶりでしたっけ」
「卒業までには自分で戻れるようになってよ?」
「はーい。『住み込みインターン』先の官僚様を、ちゃんと立てられる成績で卒業しますって」
目元に降りた薄紫色の長い前髪で、表情は読めない。それでも、こちらをじっと見る錆色の瞳が前髪から透けていた。
「彼はこの屋敷に住み込んでいる悪魔学校の学生、ラット……って、映画の時に紹介したかな」
「ども」
映画――そういえばあの時、姿は見えなかったが、どこかで機械を操作していた悪魔がいたはず。しかもナレーションまで務めていた。
「こっちはずっと、アンタのこと見てたんですけどね。アンタ廊下ですれ違っても、挨拶ひとつしないし」
「え……」
まさかネズミが悪魔だなんて、気づくはずがない。そもそも、床を見て歩いていない。
「せっかく焼いたガレットが冷めるんで、行きません?」
「ガレット……?」
故郷の料理――久々の響きに、食べる必要のない腹が鳴った気がした。
「じゃあ、本日の主役ご案内〜」
「わっ……!」
まだ重い身体をルキに抱えられ、向かったのは食堂。
いつもは部屋で食べているから、入るのは初めてだ。
「ハッピーバースデー! ロミ」
「は……?」
胡散臭い笑顔のルキに、「わー」と気力のない声を出しながら拍手をするラット。広間のような食堂に並ぶ、豪華な料理――それも、これまでの王室ファミリーに提供するような夕食ではなく、家庭的な暖かいご馳走だ。
「え……これ、なに?」
「現世の今日はロミの誕生日! 今頃君の故郷は、一面銀世界のはずさ」
誕生日――。
命日のことは頭から離れないのに。自分が生まれた日のことを、今まですっかり忘れていた。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
こちらを真っ直ぐに見つめたまま、ルキは微笑んだ。
「……うん」
どんな顔をしたら良いのか、分からない。
悪魔の言葉を、心からのものと受け取ってしまう自分がいる。
そのせいか――ルキが立場を落としてまで愛した「対象」が、まだ胸に引っかかっていた。
やっぱり私はもう、だいぶおかしくなっている。
「魂を奪う側のボクらが人間の誕生を祝うなんて、何だか不思議ですね」
それはそうだ。
楽しげに料理を取り分けているルキより、ラットの感覚の方がしっくりくる。
「僕は何度でもお祝いしたいよ! 君が生まれて来たあの日を、僕は忘れられないんだから」
「え……?」
口を滑らせたのか、意図的だったのか――悪魔は余裕の笑みとともに目を細めた。
「アンタ……私が生まれてから、ずっとそばにいたってこと?」
「さぁ、どうでしょうか?」
切り分けた焼き菓子をこちらへ差し出しながら、悪魔は笑った。




