21.堕天使は目を閉じる
人としての尊厳を失くしたあの檻へ、二度と戻りたくない――そう、心は叫んでいたのに。
私はまた、ここへ戻ってきてしまった。
また、ルイス王子を助けてしまったのだ。
「……私、バカだ」
錆びた格子を強く握り締め、前回とまったく同じ結果を振り返った。
ルイスを救ったことで、私は彼の婚約者になったのだが。彼との伽を拒んだことを侮辱と捉えたルイス、そして私が手柄を横取りしたと嫉妬するミシェルにより、魔女と告発された――。
でも、後悔はしていない。
あんなにひどい人でも、悪魔に害される人間を見捨てるなんてことは、やはり私にはできなかった。
「……おばあちゃん。これで、良いんだよね」
私は誇り高き退魔師アン・セージの孫娘。
そして――死んでも自分が正しいと思う道を辿る、ローズマリー・セージだ。
「ロミちゃん……」
傍で見守ってくれているミチヨさんが、何かを言いかけた、その時。彼女はびくりと肩を揺らした。
背後からの濃い気配を感じ、振り返ると。
『…………』
暗いレンガの壁の前に、いつの間にかネコ頭がいる。暗い金銀の瞳が、怪しく光っていた。
「……ルキ」
本当に、この悪魔はいつから私のそばにいたのだろうか。
無言のまま契約書を差し出す悪魔は、『良いのか?』、と問いかけてきた。
「……私は」
王子を助けるかどうかは、正直迷ってしまった。
でも、ルキと契約するかどうかは迷わない。
ルキの権能で、この後ミシェルと王子の仲を引き裂くことになるわけだが――それは彼女のためにもなると、今なら強く言える。
女を見下しているあの男は、きっと悪魔の力で操作されなくても、ミシェルを捨てたに違いないのだから。
「愛欲の悪魔ルキフェルト、私と契約しろ!」
迷わず、そう唱えると。
『また救えなかった……俺は何度繰り返せば、お前をすべて……』
「え……?」
ネコ頭が、私の両手を掴んだ。
知らない展開、聞き覚えのないセリフ――思わずミチヨさんを振り返ると、彼女はノートを開いていた。
「ロミちゃん、なんか変よ! ノートが書き換えられていって……このネコの悪魔と、あなたの過去が『混線』してるの……?」
「それってどういうことですか!?」
幻であるはずのネコ頭は、人の手を掴んだまま離さない。
思いもしなかった事態の発生に、なす術もないまま――牢獄が歪んだ。薄暗い地下の風景がクシャクシャに丸くなっていく。
「なに……!?」
そして。
気づくと、周りの苔むした壁は消えていた。
手を握っていたネコ頭もいない。
「ここは……?」
黄昏の空が広がる神殿のような場所だ。全体的にシンプルで白を基調とした、柱の並ぶフロア――どこか魔役所にも似ている。
「ミチヨさん……?」
彼女の姿がない。
さっきから、頭上を通り過ぎる鳥のような影を見上げると――。
「わぁ……」
吹き抜けの天井を行き交うのは、白い羽の天使たち。子どものように小さな姿のものが多い。
もしかすると、ここは――。
「潔癖すぎて落ち着かん場所だろう? 天界というやつは」
いつの間にか隣にいる悪魔に気づき、思わず転びそうになった。
「ルシファー……?」
束ねた髪を揺らしながら、スーツ姿の大男は空間が鳴るほどの笑い声を上げる。鼓膜が震えて、耳が気持ち悪い。
「やはり良いな貴様! どうだ? オレ様の権能空間にいる今なら、契約の効力は薄れる。仕える主人を、ルキからオレ様に乗り換えることもできるぞ」
血の滲むような赤い瞳に見つめられ、全身が打たれたように痺れた。
コイツの前では、私程度の退魔の血では敵わないと、一瞬で分からせられる。
「……遠慮しておきます」
こんなのを普段から相手にしているというのだから、ミチヨさんはすごい――。
「そういえば、ミチヨさんは? どうしてあなたがここに……?」
「あぁ、理世の手には負えない展開になったからな。オレ様が直々に参ってやったというわけだ」
「わっ……! なに?」
突然、人を肩に担いだ悪魔は黒い翼を広げた。
白が黒に染まっているだけで、大きな羽の塊が8つある翼は、魔役所で見たミカエルの翼とよく似ている。
そういえばコイツは、元天使。それもかなり位の高い、熾天使だったとミカエルが言っていた。
「もうすぐ審判の鐘が鳴る。貴様はアレを見ておくべきだと思ってな」
だから「ルキフェルトの過去」へ連れてきた――そう囁いた悪魔の耳元で、大きな金色のイヤリングが揺れる。
瞬間、悪魔は飛び立った。
白い柱が螺旋状に浮き上がる天井を、悪魔はまっすぐに昇っていく。
やがて到達したのは、光に覆われ見えない頂上の、さらに上。
「あれは……」
虹色に輝く光の玉が、空と建物の境界にある祭壇に鎮座している。
「あーあ。見るだけで嫌になる光だぜ」
「もしかして、神様……?」
ルシファーは答えず、光の玉の前にいる白い男を指さした。
神に向けてこうべを垂れ、片膝をついている天使は――。
「ルキ……?」
ネコ耳もツノもないし、頭のてっぺんから爪先まで真っ白だが、すぐに分かった。
ミカエルが言っていた、能天使時代のルキだ。
あの胡散臭い笑顔、どうやら「悪魔だから」ではなく、ネコを被っている彼本来のクセらしい。
「それで? 僕、あなたから山ほど仕事もらってるから忙しいんだけどなぁ」
あの性格も変わっていない。
「話し相手なら他当たってよ」、と軽口を叩くルキに対し、荘厳な声が響いた。
『その、仕事のことだが。おまえ、なんども繰りかえしているな』
男と女、子どもと大人――あらゆる声が混ざった「音」に諌められても、ルキの笑顔は揺るがない。
「なんのことだい?」
『わたしはいった。「対象」を見守れと。だがおまえは、見るだけではがまんがならなくなった。近づいた。そして……時間をいじったな?』
対象――?
時間をいじった――?
「何のこと……?」
「しっ! 黙って聞け」
ルシファーに押さえられ、自分が今にもルキの元へ駆け出しそうだったことに気づいた。
ルキからネコ被りの笑顔が消える。
澄んだ金銀の瞳に、暗い影が降りる。
「おかしいなぁ……巻き戻せば、あなたですらも気づかないはずだったんだけど」
感情のない声に、光の玉は輝きを強めた。まるで悪きものを浄化するかのように。
『おまえは「対象」に焦がれ、その身にあまる力のつかいかたを誤った』
光の中から、胸の奥底まで震えるような鐘の音が響き渡った。
『ゆえに』
1回。
『おまえを』
2回。
『罷免する』
3回――鐘の音が鳴るたびに、ルキの背に生えた、純白の翼が黒く染まっていく。
「ルキ……!」
これは、ルキが天使から悪魔へ堕ちる場面――。
身体を押さえるルシファーの手が離れた。今ならルキのところへ行ける。
「ローズマリー・セージ!」
痺れるような呼び声に、勝手に足が止まった。
「良いのか?」
錆びついたように動かない首を回し、声を振り返ると。ルシファーの髪がおぞましい闇を帯びて浮いていた。
「『人間の女』に魅入られ、禁忌を冒し、堕ちたその者へ……貴様は手を差し伸べるというのか?」
『アイツが堕天したのは、「人間の女」のせいだ』
ジェニミアルの声が、頭に響く。
「私は……」
ルキの過去なんて、関係ない。
私が知るネコ頭は、実は寂しがりで、胸の内に抱えた不安を私にこぼす、小さな子どもみたいな悪魔。自身で解せないはずの「愛」を、信じているかのように何度も口にする――悪魔を嫌う私が信じたくて、たまらない悪魔だ。
「ルキ……!」
精一杯の力で呼ぶと、幻のはずのルキが振り返った。
「ロミ……?」
髪が黒く染まり、天使の羽が抜け落ちていくルキは、苦しそうに胸を押さえている。
堕ちかけた天使に駆け寄り、手を伸ばす。
「帰ろう? 私たちの地獄へ」
「ロミ……」
伸ばした手へ、ルキが縋るように手を絡めた瞬間。
「合格だ、ルキフェルトの奴隷よ」
声を振り返ったが、柱の前には誰もいなかった。
「ルシファー……!?」
途端に、光の玉が座す神殿が黒く塗りつぶされていく。過去の幻影が、霧散していく――。
それでも、手の中にある感触は消えていなかった。
たぶん、この手は私と同じ。
過去ではなく、今に在るルキに違いない。
「ルキ……」
「帰ろうか、僕らの地獄へ」
顔は見えない。
それでも、懐かしい温度を感じる手だけは、たしかに私の手を握ってくれていた。
「……あれ?」
いつの間にか、霧が晴れている。
目の前には、暗い金銀の瞳。
ここは逆さ吊り屋敷の自室――いつも寝ているベッドの上だ。
「ロミ!」
「うわっ」
突然、ネコ頭がじゃれついてきた。
私がベッドに倒れても構わず、フワフワのネコ耳が顔をくすぐる。
『良くやった、ローズマリーよ! 貴様のおかげで、俺の権能にかかっていた制限が解けたぞ」
「え……?」
それは、どういうことなのか――。
どさくさに紛れてエプロンを解いた手を掴み、「真面目に教えて」と睨みつけたところ。ルキは渋々人の顔に戻った。
「あそこで本当は力を制限されて……悪魔にされた僕は、地獄の牢に500年閉じ込められるはずだったんだけどね?」
私が過去を変えた――ルキはそう言って、愉快そうに笑った。




