20.ある少女のやり直し
悪魔の見せる、懐かしい幻――その中に現れたのは、ここにいるはずのない彼女だった。
「ミチヨさん? どうしてここに……」
「ほんとそれ。ただの契約者なんだけどねぇ。ルシファーがアタシの仕事っぷりに惚れちゃって、『案内人』まで任せられるようになっちゃったわ」
あの傲慢かつ恐ろしい悪魔に気に入られるなんて――さすがは彼女だ。絶望に打ちひしがれていた地獄の待合室で、勇気をくれた彼女の瞳を、私はいまだに忘れられない。
「案内人、ミチヨさんで安心しました」
「あら! 嬉しいこと言ってくれるわね〜」
パンツスタイルの白いスーツに身を包んだミチヨさんは、「ここがご実家なのねぇ」と家のリビングを見回している。
「でも助けてはあげられないのよねぇ〜」
「いえ、私の試練ですから」
ここで私がすることは、『過去の記憶』をなぞるだけ。ルシファーの権能の外に出られれば、試練は終わり――そう言って、ミチヨさんはノートを撫でた。
表紙には、『ローズマリー・セージ』と書かれている。
「そのノートは?」
「今はヒミツ。とにかく外に出てみたら? お父さんが、あなたを待ってる人がいるって言ってたでしょ」
そういえば、父がそんなことを言っていた。
ここにいる幻の父と祖母に、ミチヨさんは見えていないらしい。それでも彼女は「ご挨拶しとこ」、とお辞儀しながら外へ出ていった。
「ミチヨさんって、礼儀正しい方……ですね」
「礼を重んじる国の出身だからね〜、なんて。それにしても、外はいい天気ねぇ」
長い髪を揺らす彼女は、颯爽と青空の下へ出ていく。
故郷の空、澄んだ空気、まるで本物みたいな感覚だ。近所で飼っている鶏の声、羊飼いの歌――そして蜂蜜色の花を垂らす菩提樹の影で、聖書を読む黒髪の少年。
「エルマー……」
「まーっ! あれがロミちゃんの初恋の子? 美少年じゃなーい」
「なっ……!」
どうしてそんな、極めて個人的な情報を知っているのか――「青春ね」と頬を染めるミチヨさんを問い詰めると、彼女は例のノートを盾にした。
「コレ、ロミちゃんの人生イベントがなんでも書いてあるの。ほんとルシファーのやつ、趣味悪いわよねぇ〜」
「はぁ……もう、悪魔の趣味の悪さには慣れました」
慣れてはいけないことだが――今はそれより、エルマーだ。遠くから様子を見ているというミチヨさんから離れ、聖書を黙読する彼に近づいた。
「エルマー……」
「あ、やっと来たね」
いつも私に会いにきてくれる、近所の男の子。
今思えば、彼も私のことを、何かしら想っていたのかもしれない。
そして、私が彼に惹かれた理由が――。
「3日会えなかったけど、大丈夫だった? 悪魔にイタズラ、されてない?」
私と同じで、彼には悪魔が見えた。
退魔の血はもっていなかったけれど、なぜか彼は悪魔に詳しく、祖母以上に悪魔の撃退方法を教えてくれたのだ。
「座りなよ、ほら」
まだ小さくも、強い手に腕を引かれる。
彼には、私の姿は13歳の頃に見えているのだろうか。それとも、彼ら幻は過去の出来事をなぞっているだけなのだろうか。
「ロミ、手を」
「……うん」
そういえば。彼は会うたび、私の手を確認していた。
「手……また傷ついてる。悪魔を祓ったの?」
彼の手が、指先に触れる。
その手が温かく感じるのは、きっと思い出が蘇っているから――でも、何だろう。懐かしいだけじゃなくて、つい最近まで触れていたかのような気がする。
「そう簡単に魂を傷つけるもんじゃないよ」
「え……?」
このセリフ、どこかで聞いたような――。
「ロミの血は特別なんだ。身体の傷は、魂にまで響いてしまう」
エルマーの薄い唇が、閉じかけている指先の傷に触れた。
もう、彼のことは思い出のはずなのに――かすかな熱に、無いはずの脈が跳ねる。
「ロミ……なんか、緊張してる?」
額同士がくっつく。
「え……?」
こんなに近くまで彼が寄ってきたこと、あっただろうか。頬に吐息を感じる。
彼のキレイな緑色の瞳が、近づいて――。
「……っ!」
気がつけば、エルマーの肩を押していた。
緑の瞳が丸くなり、吐息が静かに離れていく。
「……ごめんね」
彼は少しだけ寂しそうに微笑むと、音もなく立ち上がった。
幻だって、分かっているのに――目が潤む。顔が熱い。
「じゃあ……またね」
エルマーは逃げるように去って行った。
こんなこと、覚えていない――。
「くぁーっ! もったいない!」
「……ミチヨさん」
見られているのを忘れていた。
冷めつつあった頬が、再び熱くなる。
でも――エルマーは、この年の間にいなくなってしまったのだ。
「いなくなった?」
さっきまでエルマーがもたれていた木の前へ、ミチヨさんが座り込んだ。
「ええ。引っ越したとかではなく、彼だけ家族を置いてどこかに消えてしまって……」
行方不明ということで、両親が役所に届けていたが――他にもおかしなことがあったのを、今思い出した。
祖母は彼を「明るい赤毛の快活な少年」と言っていたが。私にはずっと、「黒髪の落ち着いた少年」に見えていたのだ。
「なにそれー! 人間じゃなかったってこと?」
「分かりません……でも」
あの時何か言葉をかければ、彼がいなくなる結末は変わったのだろうか。
でも、キスされそうになった記憶はなかったのだが――。
「まぁ、案外『人間じゃないの』って混ざってるものよねぇ」
「ミチヨさんって、一般の人じゃないんですか? なんていうか……」
肝が据わりすぎている。
そう指摘すると、ミチヨさんは真紅の唇を妖艶に持ち上げた。
「そうねぇ〜。いち企業の社長をしていたってだけで、悪魔とは関わりない人生を送っていたわよ」
彼女は地獄の待合室で言っていた。悪魔と契約した理由は、「若さと美しさを保つため」と。
『享年64には見えないでしょ?』
あれは衝撃だった。
「アタシだけ覗き見して、フェアじゃないわね」
ミチヨさんは視線を晴天に向け、語り出した。
ルシファーと出会ったのは、「元夫の浮気」に苛ついていた時のことだと。
「あのジジイ、若い子に目移りしたのよ! 私が2、30代だった頃は『お前だけだ……』とか言ってたくせに!!」
たぶんミチヨさんは、私よりもだいぶ後の時代の人だ。それでも、いつの時代だって妻の悩みは変わらないらしい。
「それで! 慰安旅行でパーっと中東豪遊してたら、酔った勢いで怪しい首飾り買っちゃって」
それに悪魔の思念が宿っていた、とミチヨさんは遠い目で言った。
私は血のせいで、悪魔が蚊のようにたかってくるが。意図的に呼び出したい人は、そういった道具を使う。
大抵は紛い物らしいが、ミチヨさんはとんでもない当たりを引いたらしい。
「でね、首飾りから出てきたアイツが、私に言ったの。『貴様の強欲な魂の味、気に入った!』ってね」
ようやく分かった。彼女が悪魔と契約した理由――元旦那さんを見返すためだったのか。
また、あの待合室での話を思い出した。ルシファーは「人間の姿をした色男だ」とミチヨさんは言っていた。
「……もしかしてルシファーのこと、好きなんですか?」
元旦那さんのことを忘れるため、耳障りの良い言葉をかける悪魔に惚れてしまったのか。
靴の上を歩くアリを見つめながら言うと、ミチヨさんは「好き?」と笑いながら訊き返してきた。
「あははっ! 可愛らしい質問ね」
ルシファーは、過去を受け入れないアタシを好きにならない――ミチヨさんは、何かを諦めたように微笑んだ。
「アタシは歳をとって、醜くなった自分が嫌だったの。でもそれは、『今の自分』を受け入れるのが怖かっただけ」
みんなが通った道を、自分だけが悪魔と契約してズルをした――彼女はそう言って、今度は小さく笑った。
「好きかどうか聞くなんて、もしかして……ロミちゃんは主人の悪魔に恋しちゃってるとか!?」
恋。
甘く重い響きが胸に響く。
ミシェルに対して抱く思いは、もはやそんな言葉では耐えきれないほど膨らんでいる。
でもそれ以上に――ルキに抱く感情が、自分の中で重さを増している。見て見ぬ振りが、できないほどに。
「恋とかじゃなくて……」
そう、言いかけた途端。
視界が歪み、晴天が夜空に塗り替えられた。
「あらら、もう次に行かないとみたい」
「次って……!?」
瞬く間に日が沈み、昇り、沈み――何度も繰り返されるうちに、菩提樹の並ぶ獣道は、見覚えのある装飾の寝室へと変化していった。
ここは――。
豪奢で目がチカチカするような、赤と金の壁と絨毯。そして巨大な天蓋のベッドでは、痩せこけた青年が苦しそうに呼吸をしていた。
「……ルイス王子」
その名を口にした瞬間、胸と腹が抉られたような感覚がした。
私を魔女と告発し、処刑に追い込んだ張本人。そして地獄の面接室で会った彼は、私のことをさっぱり忘れていたのだ。
「……これは、言葉がないわね」
『ローズマリー・セージ』のノートに目を通しているミチヨさんは、静かに目を伏せた。
「でも今の彼は、悪魔に悪夢を見せられ続けているのね……その原因である悪魔を、ロミちゃんが祓った」
でも。
そのせいで、聖女だったミシェルのプライドを傷つけ、告発されるに至った。
「どうするのかしら?」
「え……どうって?」
「このままだと彼、死ぬわ」
私に救われた結果、彼は未来へ生き延びた。
だから、このまま私が放っておけば、彼は死ぬという。
「でも……!」
自分が告発されると分かっていて、彼を助けろというの――?
「本当に嫌な場面選ぶわね、アイツ」
いやだ。
もうあの牢獄に戻りたくない。
たとえこれが幻だとしても。私を傷つけ、閉じ込め、人としての価値をなくしたあの檻の中には、絶対に――。




