1.スイートあべこべルーム
『現世では悪魔が人間に仕え、死後は人間が悪魔に仕える』――契約通り、主従は逆転したはずだったのだが。
あの悪魔ときたら、メイドとして屋敷に住み込む奴隷に対し、「永遠に大切にする」、「愛してる」などあり得ないことを口にしたのだ。
「働かせすぎて壊れないように加減するってこと……?」
でも、あの口付け。アレは意味が分からない。
「そもそも何でアレが初めてだって知ってるわけ……?」
「さっきから何を呟いているんだいロミ? このお菓子食べてみなよ。あっ、それとも喉乾いた?」
こちらの気も知らないで、隣の席の悪魔は微笑みながらトレーを差し出してきた。
「なにこのグロ――見慣れない飲食物ですね、ご主人様」
赤黒い木の根に乾燥した目玉がふたつ付いたお菓子。紫と黄のクリームが渦を描いたお茶。
覚悟はしていたが、地獄の食物は美味しそうな見栄えではない。
「人間の感覚だとこれは不味そうなんだね。いやぁ失念していたなぁ! 次からは気をつけるよ」
人の反応を見て遊んでいるこの悪魔――ネコ頭だった時との温度差に、別人と話しているかのような違和感を覚える。
寡黙な一方、口を開けば物々しく偉そうな悪魔だったはずだけど――。
「そういえば、この車の揺れキツイかな? 人間の三半規管に配慮したのを選んだつもりだったんだけど」
「お構いなく」
「そう? あぁなんだ、もう着いちゃったよ。僕の家、同僚たちからは『逆さ吊り屋敷』って愛称で呼ばれているんだ」
たしかにその名の通り。3階建ての無機質なお屋敷が逆さまになっている上に、見えない何かに吊られて宙に浮いている。
「人間には不便な造りかもしれないけど、そのうち慣れるから。じゃあ抱えたまま屋敷を案内させてもらうね」
「えっ、待っ」
車酔いから間髪入れずにハイジャンプ。
そのまま高速で3階にある正面玄関を通り抜け、悪魔は軽やかに床へ着地した。
「ロミ、大丈夫? 顔が鯖色に染まってるけど」
「お……お構いなく」
「長いこと待たせて疲れちゃったかな。今夜はもう部屋で休むといいよ」
ご機嫌の悪魔に抱えられ、着いた部屋は奴隷に相応しい物置き――かと思いきや。生前仕えていた王宮のゲストルームより、何倍も広い寝室だった。
「自由に過ごしてね」、と悪魔は鼻歌混じりに踵を返し、部屋から出ていく。
「自由にって……」
赤紫のシャンデリアが照らすのは、飾りが一切ない漆黒のテーブル、イス、ベッド。それからクローゼットなどの家具がふた組ずつあり、ひと組は天井から逆さ吊りにされている。
まるで、上下両方の空間で過ごすことができるかのように。
試しに床上のクローゼットを開けてみると、中には貴族の方々がお召しになっていたような煌びやかなドレスや靴、帽子――にすべて黒のインクをぶちまけた服飾品が揃っていた。
本当に。ただのメイドが、なぜこのような部屋に通されたのか。
悪魔の生態に造詣が深くなければ、「私、超美形悪魔に愛されているのでは?」と痛く危険な勘違いをしてしまうところだが。これは単純に、「明日はここから掃除を始めろ」という意味だろう。
『冥界中央集荷センターヨリ届ケ物ダ』
「わっ!」
いったいどこから入ったのか。
肩かけポーチを提げた大ガラスが、いつの間にかイスの背もたれで羽を休めている。
『テーブルヲ見ロ』
甲高い声を上げるカラスの言う通りにすると。「ローズマリー・セージ」とラベルの貼られたブリキ缶が置かれていた。
『オマエノ所持品ダ。オッ死ンダ時身ニ着ケテタモノハ冥界へ持チ込メルノダ。ソンナコトモ知ラナイノカ?』
「なにぶん死ぬのは初めてなので」
さっそく錆びついた蓋を開けようとすると、カラスは半透明の羽を広げ、部屋の壁をすり抜けていった。
『プライベートハ守ル主義ダ』、と言い残して。
「死んだ時身に付けてたもの、か」
小型のナイフ、古い指輪、分厚い手帳。
どれも処刑前夜に、祖母が看守の目を盗んで手渡してくれたモノだ。
「これがあれば、アイツの企みが分かるかも」
ざくろ石のついた指輪を右の薬指にはめ、ナイフで指先に小さな切り込みを入れた。あとは傷口から滴る血をまっさらな手帳に垂らせば――。
「やった! 地獄でも血の力が使える」
祖母の祖母、そのまた祖母の代から書き継がれてきた『悪魔事典』。退魔の血で執筆され、血を染み込ませると文字や絵が現れる仕組みになっている。
「ル、ル、ル……どこだ?」
【愛欲の悪魔】ルキフェルトについて知っていることは、「金銀の瞳のネコ頭」、「男女問わず愛を結んだり解いたりする権能をもつ」、この2つだけ。
詳細が分かれば、あの悪魔が妙な態度をとる理由が分かるかもしれないのだが。
「ウソ、ない……?」
どこにもネコ頭の名前が載っていません。
最後のページにたどり着いても、「真っ当な恋をしてみたかった」と私的な殴り書きがあるだけだった。
人生最後に書いた一文、辞世の句にしては何とも恥ずかしいものだが。図鑑が後世に残らなかったことがまだ救いだ。
「あれ? こんな強調線つけたっけ」
『恋』の字の下に、引いた覚えのない赤い線が――。
「これ生前の日記かい? 血文字で『恋』って斬新〜」
「だって牢屋に筆記用具ないし……って」
ため息混じりに振り返ると。
思った通りすぎる悪魔が、満面の笑みで手帳を覗いていた。
「ご主人様。このお屋敷ではドアを使わない入室が主流なんですか?」
「別に? 驚く顔が見たいから。ところでその『ご主人様とメイドごっこ』はいつまで続けるの?」
これはごっこではない。むしろ主従でないとすれば、この関係は何なのか。
「困り顔も美味しいけど、食事の準備が整ったから一緒にどうかな?」
悪魔はこちらが何か言い出す前に、指を鳴らした。すると人間の五感に合ったご馳走が、一瞬でテーブルの上に現れる。
「でも私、死んでますよね。食べる必要あるんですか?」
「生命維持のためじゃないよ。精神衛生を保つため……いや、君との素敵な時間を過ごすためかな?」
これが愛欲の悪魔の本気――数多の人間を誘惑してきた、甘い言葉に表情。
「ロミ、どうしたの? クモに遭遇した時みたいな顔しちゃって」
どうして苦手な生き物を把握されているのかは、ひとまず置いて。これは後ほど絶望の底に叩き落として楽しむための、下準備といったところか。
上機嫌の悪魔に従い、ひとまず食事の席についた。
「さぁどうぞ! 見よう見まねで作ったから、美味しいか分からないけど」
主人が直々に料理するなど、現世ではあり得ない。それもメイドに振るまうなんて。
「あの。この広いお屋敷に、私の他に使用人はいないんですか?」
「1体いるにはいるけど。実質ここには君と僕、2人きりさ」
2人きり。
甘い声で口にした悪魔の手が、円卓の向こうから伸びてくる。
「はい」
「……はい?」
差し出された匙を眺めつつ、首を傾げると。
「君の好きな『主従ごっこ』だよ。これからは何でも僕がするから、君は指一本動かさなくていいんだからね」
死者の身体に運動は必要ない――悪魔は鋭い八重歯をちらっと覗かせ、微笑んだ。
本当に、この悪魔は何を考えているのか。
「……いりません」
唇をつつく匙から顔を背ける。
すると今度は、悪魔の黒い手が胸元のリボンに伸びた。
「……っ」
とっさに背中をそらすと同時に、給仕服のリボンタイが解ける。
悪魔の青白い唇が、黒いタイの表面を滑る――艶かしい仕草に、思わず視線を揺らした。
悪魔は人間を堕とす技を熟知している。
分かっているはずなのに、目が逸らせない。
「もう一度言うけど」
こちらを見つめる金と銀の瞳が、鈍く光る。
「『これから永遠に大切にする』って、迎えに行った時の言葉……僕はアレを実行しているだけさ」
嘘だ。
紳士的な振る舞いをしても、どんなにキレイな顔で微笑んだとしても、彼は悪魔――その化けの皮を必ず剥がしてみせるまでだ。