17.試練:南-地獄アイドルとスタッフ-
黒い手に肌を撫でられれば、熱を帯びるよう変えられつつある身体。
その忌々しい熱を冷ましてくれたのは、炎の扉から現れた東洋人男性――ジェニミアルの契約者、シラキさんだった。
「わっ、ロミさん……ご、ごめんなさい!」
とっさに服を抱き寄せるより早く、シラキさんは顔を逸らしてくれた。
一方。人を逆さ吊りにしたままの悪魔は、気にせず服を脱がせようとしてくる。
「ル……ご主人様! きれいな顔を台無しにされたくなかったら、その手を離してください」
「あれ? やっぱりこの顔、好みだったんだ」
「は、話をすり替えるな!」
床に下ろすようルキへ抗議する間にも、金属音のようなヒールが鳴った。
「おぅルキフェルト! 南の札返しやがれ」
彼女が現れただけで、肺が焼けるような熱風が立ち込める。
燃える長髪、派手な化粧、そしてゴシックパンクの衣装を着た幼女姿の悪魔――ジェニミアル。
「返せだって? 札を契約者に盗まれたのは君じゃないか」
僕はそれを拝借しただけ――そう言って微笑むルキに、ジェニミアルは手元の弦楽器を構えた。
火花を散らすそれを掻き鳴らすと、部屋の温度がさらに上昇していく。
「うぁっつ! ジェニちゃん様、これ人間燃えちゃう!」
「ちっと耐えろ白城ィ! テメェをパワハラった上司よかマシだろーが」
これは、さっさと札を返した方が良いのではないか。
ルキだって、「正式な手続きでもらってないから、ダメだろうね」と前に言っていたはずだ。
「でも考えたらさぁ、札はこっちの手にあるんだから。後はジェニミアルが承認さえすれば良い話でしょ?」
「……ご主人様」
この悪魔は、いつものように私を揺さぶって楽しんでいるのか。
それとも、やはり私を天界へ行かせたくないのか。
でも、私は――。
「ジェニミアルの試練を受けたいです」
その上で、正式に南の札を手に入れたい。
全身から滝のような汗が流れる中、涼しい笑みを浮かべた悪魔を、真っ直ぐに見つめ返すと。
「おぅ、やってやんよ」
答えたのは、楽器を鳴らす手を止めたジェニミアルだった。
「ルキフェルト! テメェの持ってる札、コイツが試練突破できたっつーなら返さなくていいぜ」
その言葉に、金銀の瞳がすっと細くなった。
私の肩を掴んだ手に、より強い力が込められている。
「ご主人様……?」
「君の心を尊重するって、最初に言ったからね」
ルキはついに、私の身体を床へ下ろしてくれた。
しかも「お邪魔ネコは家で留守番な!」と私の手を引くジェニミアルに抗議することなく、黙って手を振ってきたのだ。
「いってらっしゃーい!」
「……いってきます」
私と離れるのが嫌だと言って、休職すらしていたあの悪魔が、どういう風の吹き回しだろうか――薄っぺらな笑顔に見送られ、炎の扉をくぐると。
そこはもう、逆さ吊り屋敷ではなかった。
「歓迎するぜ、仮スタッフ! ここがオレ自慢の『獄炎屋敷』だ」
この部屋、喉が焼けるように暑い。それに何千人もが入れる大聖堂のような広さだ。
「ロミさん、お水どうぞ! ここ、人間にはキツいでしょ?」
「シラキさん……ありがとうございます」
こんな過酷な職場で働いているなんて、彼を改めて尊敬する。
私たちが立っているのは、楽器や機材が揃えられたステージ――無数の椅子が並ぶ下のフロアには、巨大な炎の杯がいくつも飾られている。
「この張り紙は……」
炎の杯と交互になって壁に飾られているのは、ジェニミアルの顔が描かれた紙――写真というのだったか。その下には、「魔役所公式! 『灼熱系あいどるジェニちゃん』就任50周年ライブ!」――赤い文字でそう綴られている。
「見たな? テメェに課す試練はソイツだぜ」
「はい……?」
「おぅシラキ! 面貸せや」
シラキさんの額に、ジェニミアルの小さな指が刺さった瞬間――彼は一瞬苦しそうな顔をしたものの、すぐに「承知!」と頷いた。
「今のは……」
以前、同じような方法で、ジェニミアルから記憶同期を受けたことがある。
でも、それとは少し違ったような――。
「ンじゃ、ソイツ控室で仕上げとけ。オレはこのままリハいくぜ」
「かしこまりっす!」
よく分からないままシラキさんに導かれ、広間から繋がる小部屋に入った。どことなくソワソワした彼は、さらに鍵をかけている。
「ロミさん……」
シラキさんは給仕服のスカートを翻し、こちらに向き直った。
「札の試練を受けるってことは、天界に行こうとしてるんっすね?」
「……はい」
最初に「天界へ逃げよう」と誘ってくれたのは、シラキさんだった。
一緒に悪魔の支配から逃げ出そう、と。
ドライブをしたあの海岸で差し伸べてくれた手を、今も忘れてはいない。
「ロミさんの契約した悪魔、その……すっごいことしてましたけど……本当に大丈夫なんすか?」
私に執着している割に、私が天界へ行くのを助けるのはなぜなのか――それは私にも分からないことだ。
でも。
「アイツが私の『心を尊重する』って言ったから……今は、少しだけ信じてみたくて」
綺麗なブラウンの瞳から視線を逸らし、揺れるスカートの端をとらえた。
「悪魔を信じるって考え。ロミさん、変わらないんですね」
「え……?」
私は前にも、「悪魔を信じてみたい」と口にした――そう言って、シラキさんは目を伏せた。
『悪魔が私を必要とする理由が知りたい』
以前彼に告げた言葉が、頭の中にこだまする。
でも、私は変わった。
あの時は悪魔の目的が知りたかっただけ。
今はそんなこと、どうでもよくて――ルキの言葉を信じたくなっている。
「……私、おかしくなってしまったみたいで」
最近、ルキに触れられるのが嫌じゃない。あの冷たい身体に、暖かさを感じている。
「ロミさん?」
「あ……はい」
悪魔に身体を許していると知って、シラキさんは私を軽蔑しただろう――おそるおそる顔を上げると。
シラキさんは、瞳に燃えるような光を宿していた。
「死後をエンジョイする姿勢、いいと思います!」
「え……?」
思ってもいなかった言葉に、目を見開いた。
シラキさんは、小部屋の壁を見つめながら「あのクソ上司に比べれば」――と続ける。
「悪魔でも、ジェニは天使みたいなもんっすよ」
「……天使?」
「はい! 生きてた頃の自分が推したアイドルって、たいてい解散しちゃってたんっすけどね……でもジェニちゃんは引退する心配ないし、限界社畜からアイドルのマネージャーに転職できたし」
冷静に考えたら、今の方がずっと楽しい――ジェニミアルに過酷な労働を課され、逃げ出していた彼とは別人のようだ。
「ロミさんも、そうなんじゃないっすか?」
「私は……そう、なのでしょうか?」
シラキさん方式で、生前と死後を振り返る。
あの時の私は――ミシェルと第二王子から魔女として告発され、18年の生涯を炎の中で閉じた。
今は――騒がしくて、時々ムカつく悪魔が四六時中そばにいる。そして、心にもないはずの言葉をかけてくる――「愛している」と。
「せっかく手に入れたセカンドライフ、楽しんじゃってもいいっすよね! だって主人が許してくれてるんっすから!」
ジェニミアルは、手に入れた人間の魂を食べないらしい。その証拠に、この屋敷では多くの人間を見かける。ルキが「1000人の同居人がいる」と言っていたのは、たぶん嘘じゃない。
「いい主人に恵まれて、幸運っすよ自分たち」
死後を楽しんでも良い――シラキさんの言葉に、胸が少し楽になった。
でも、きっと本当に楽になれるのは、ミシェルと許し合うことができてからだ。そのためにも私は試練をクリアして、天界への鍵を手に入れなければ――。
「あれ? そういえば試練は……」
「げっ! 忘れてた」
シラキさんは、ジェニミアルから言葉を託されたという。あの時額に触れていたのは、「記憶同期」ではなく「思考同期」だったと――そんなこともできたのか、あの悪魔。
「とりま、これを見てください」
シラキさんが手のひらサイズの板を操作すると、黒い箱の中にジェニミアルが現れた。
これは、確か『テレビ』という箱だったか。この中に映る彼女は過去の像で、この中には誰もいない――なんて、いまだに信じられない。
「それで、これが何なんですか?」
ジェニミアルはたくさんの亡者と悪魔が入り混じる観客を前に、歌ったり踊ったりしている。
その歌声は、耳を塞ぎたくなるほどに凄まじい。
「これが試練っす!」
「え……?」
「今夜のライブは超プレミアムなんっすよ! ジェニちゃんのデビュー50周年ライブっすから」
その「らいぶ」という会を盛り上げる――それがジェニミアルからの、私への試練だという。
「『テメェの“創造力”、見せてみろや!』……だそうっす」
分からない。
アイドルの「らいぶ」とやらで、私の創造力を、どう試すというのだろうか――。