16.嵐のフロア
『……貴方、仕事の邪魔です』
厚い黒雲が、B3フロアを覆っていく。
アマイモンの周囲にも、黒い霧が立ち込めている。
この悪魔、完全にキレている――。
「ちょっと秘書の人間! 何とかしておくれよぉ」
「オレタチじゃムリだ!」
どう見ても下級悪魔の新魔に、アマイモンの相手は無理だろう。
でも、私にだって太刀打ちできるか分からない。
この程度のチビ悪魔なら、ナイフに退魔の血を込めれば、ひと刺しで滅することができるだろうけど――アレは無理だ。
輪郭が黒く揺らいでいるアマイモンから距離を取り、カウンターの裏に隠れた。
「そういえば、ルキは……?」
アマイモンを煽った張本人は、いつの間にか消えていた。
「ルキ、どこ!?」
針のような雨が降り注ぎ、何も見えない。
ゴウっとなる風の中、「お鎮まりください!」と誰かの声が聞こえる。
ほんの少し頭を出すと、部下の魚眼悪魔がアマイモンに向かっていくのが見えた。
宥めようとしているらしい――が、部下は突風に吹き飛ばされている。
「こんなの、どうしたら……」
顔に張り付く髪をよけ、そう囁いた時だった。フロアを洗い流す黒を、より濃い闇色が呑み込んでいく。
迫り来る、この気配は――。
『待たせたな、ローズマリーよ』
「ルキ?」
耳元の低音と同時に、身体が宙に浮く感覚がした。
人を抱えた悪魔は、フロアの上空からアマイモンを眺めている。
『これは貴様の「試練」だ。東の小僧を正気に戻してこい』
「どうやって」と尋ねる前に、浮いていたはずの体が落下をはじめた。
「わっ……!」
水が床に溜まっていたから良かったものの、あの悪魔――これが生身の身体ならば大惨事だ。
『出てこい【愛欲】……さもなくば、嵐の濃度を呼吸不可まで引き上げる』
あれはアマイモンの背中――口調が変わっている。どうやらルキを探しているらしい。
しかもその当人は、堅物悪魔のすぐ後ろを狙って私を降ろしたようだ。
「私の試練って……」
ルキがアマイモンを焚き付けたくせに――。
とにかく今は、アマイモンを正気に戻さなければ。
いっそ背後から血を浴びせたいものだが、それで鎮まるかは分からない。
「でも……」
悪魔でさえ苦しむ嵐の中。このまま迷っていたら、死にはしなくとも「私」が消える可能性すらある。
太ももの隠しナイフに手を触れたが――嵐を発生させるほどの力を持つ悪魔に、ナイフ一本で敵うはずがない。
ルキに退魔の血をけしかけることができたのは、私の身体を奪うことに夢中になっている時だったからで――。
「……あ」
そうだ。
悪魔を油断させる方法が、ひとつだけある。
ただ、これをやったら後で酷い目に遭わされそうだが――手段は選んでいられない。
床を満たす水をかき分け、アマイモンに接近した。彼の立っている場所だけは、台風の目のように雨風が凪いでいる。
『どこだ……』
前を向いたままでも、恐らく悪魔には全方位が見えているはず。
それでいい。
むしろこちらに集中してくれた方が、都合がいい――。
「アマイモン!」
『あ……?』
濡れた髪を逆立てる悪魔が、こちらを振り返った瞬間――スーツの肩にしがみつき、眼鏡越しの瞳と見つめ合った。
赤い瞳が丸くなる。
「……っ」
口の中で頬を噛み締める。鉄の匂いが口内に溢れる。
そして。
濡れた唇に、自分の口を合わせた。
『……な』
冷たい。それ以外、何も感じない。
悪魔との口付けなんて、本来こんなものだったはず。
でも、あの悪魔に熱を感じるのは――。
よそごとを考える間にも、雨風が止んだ。
いまだ。
戸惑う悪魔の唇を舌で割り、血を――。
『よくやった、ローズマリーよ』
耳慣れた悪魔の低音が、すぐ側で響く。
『この悪魔騒がせな小僧め――天に落ちろ』
人をアマイモンから引き離すように抱えたネコ頭が、腕を振り上げた瞬間。
時の止まっていたアマイモンが、天井へ吹き飛んでいった――。
「キャア! アマイモン様が……!」
最初に風で吹き飛ばされていた魚眼悪魔が、甲斐甲斐しくアマイモンを抱えている。
とりあえず、事態は収まったのだろうか。
「ルキ、私……ひゃっ」
振り返った先のネコ頭に、唇を舐められた。
退魔の血が出ているのに、ルキは自分の口が溶けるのも構わないで舐め続けている。
「いっ、痛いってば。アンタも溶けるから、やめ……んぐっ!」
続いて首筋に牙を立てられ、思わず詰まった声が出た。
『俺以外に自ら口付けた仕置きだ』
「な……だってアンタ、さっき『よくやった』って!」
『うるさい』
首、耳、腕――素肌が出ているところに、次々と悪魔の歯形が付いていく。
痛みと甘い痺れの残る行為に、頭がぐらついていると。
「……っ、最悪だ」
あの声は、アマイモンの――。
「ちょっと、降ろして!」
ひと騒ぎあったとはいえ、まだ試練中。今の私は彼の秘書だ。ひとり項垂れるアマイモンに近づき、「試練は……」と訊ねると。
初めて見る、レンズ越しではない赤い瞳がこちらを睨んだ。眼鏡がどこかに飛んでいったのだろうか。
意外と幼く見える顔に、つい目を奪われた瞬間。
目の前に、「東」と書かれた半透明の札を差し出された。
「秘書の仕事、何もしてないんですが」
アマイモンは顔を両手で覆いつつ、「評価基準についてお伝えします」と呟いた。
「……貴女が不甲斐ない私を止めるためにした、『とっさの判断』は見事なものでした。悪魔は敵意に対して敏感ですが、人間と同じく『誘惑』には揺らいでしまう特性があります」
すべて早口で言い、アマイモンが言葉を切ると。
背後から指を鳴らす音が響くと同時に、アマイモンが顔から手を退けた。
「え……?」
隠されていたアマイモンの顔が、真っ赤に染まっている。
悪魔がこんなウブな反応をとるなんて――。
さっきの指鳴らし、きっとルキに違いない。反転の権能で、無理やり手をよけさせたのだろう。
「堅物メガネ君ってば〜! 魂は即食いだから、誰かとあんなこと、したことなかったんでしょ?」
ここぞとばかりに茶化すルキに対し、再びアマイモンの周囲に風が吹き始めている。
「待って、ごめんなさい!」
とっさに出た言葉に、アマイモンの風が鎮まった。
「……なぜ貴女が謝罪を?」
「いや、なんとなく……」
ふと、地獄の待合室での出来事を思い出した。
完全に「無」だった、悪魔とのファーストキス。そんな私と比べ、可愛げのある反応をしているアマイモンに対し、なぜか申し訳なくなったのだ。
「今回のことは業務上のこと、ですから」
お互い忘れましょう、と提案したところ。
赤い瞳が、真っ直ぐに私を貫いた。
堅物悪魔はこちらをじっと見つめ、ふと視線を逸らし、ため息を吐いている。
「ほんと貴女、首輪付きで助かりましたね」
「え……?」
それはどういう意味なのか。
訊ねる間もなく、「もう用はないでしょう」とB3フロアから追い出されてしまった。
嵐が過ぎ去り、逆さ吊り屋敷に帰宅した後。
「やった。まずは1枚目」
ベッドに寝転び、「東」と書かれた札を眺めていると。
突然天井から降ってきたネコ頭に、札を奪われた。さらに悪魔は、鋭く尖らせた爪の先を、人の足に軽く触れさせている。
「……何ごと?」
『試練を突破するためとはいえ、悪魔相手に気を持たせるとは。お前は本当に、悪魔に向いているな』
「はぁ?」
言い返す隙も与えず、ネコ頭は爪でタイツを破った。涼しくなった太ももの内側に、ざらざらの舌が触れている。
「やめっ……アンタなんか、どんどんおかしくなってない?」
モフモフのネコ頭を押し返していると、その毛がいつの間にか人の質感に変わっていた。
悪魔は深いため息を吐き、熱のこもった暗い瞳でこちらを見下ろしている。
『お前が誰のものか、その魂に刻まねばな』
強く抱えられた身体が、宙に浮いていた。
それも、天井で逆さ吊りになった家具と同じ位置に。
「なっ……」
この悪魔――人を縋らざるを得ない状況に追い込んだところで、さらに唇を重ねてきた。
『お前自身の知らない「お前」ですら、すべて俺のものにしたいというのに』
「私の知らない、私……?」
答える代わりに、悪魔は再び口を塞いできた。
解かれたリボンタイとエプロンが、下へ落ちていく。
逆さまのまま、勝手にことが進んでいる――。
「いやっ、こんなの変だ……!」
「えー、僕は落ち着くよ?」
このネコ被りが――。
ルキに触られると、勝手に身体が熱を帯びるようになってしまった。でも、絶対にこのまま好きにはさせない――強く決意した、その時。
『たのもーう!!』
外から、聞き覚えのある声がした。
それも屋敷を震わせる轟音付きで。
『テメーら札集めしてるらしーじゃねぇか! とりまオレの札返せコラ!』
窓の外には、燃えたぎる炎の影が見える。
「……今の、ジェニミアルでは?」
「さぁ、僕には聞こえなかったなぁ」
ほら、続き――そう言って構わず続けようとするルキに、退魔の血付きのキスをお見舞いしようか悩んでいると。
火の粉が弾ける音とともに、部屋の中へ炎の扉が現れた。
「あれって、ジェニミアルが移動に使ってる扉……?」
そこから入ってきたのは、男性でありながら女性給仕服を着用するよう義務付けられている、ジェニミアルの契約者――。
「シラキさん……!」
「あれ? 声がするのに誰もいな……ひぇ」
こちらを見るや否や、シラキさんはものすごい勢いで顔を逸らした。
「あっ……」
忘れていた。
この悪魔のせいで、服が半分ほど落ちかけている――さっと上半身を腕で隠した、その時。
「おぅ白城! 家主はいたか!?」
「だっ、ジェニちゃん! 今入ってきちゃダメっすよ!」