15.試練:東-堅物統括と秘書-
「天界に行けば、ミシェルと話せるんじゃない?」
何でもないことのように、悪魔は言った。
でも――悪魔と契約したことで地獄に落ちた私が、天界に足を踏み入れることなどできるのだろうか。
「地獄と天界を繋ぐ門。その鍵をもつ4体の悪魔から認められば、悪魔と契約した人間の魂でも天界へ行くことができる……一時的にだけどね」
一時的。それでも、ミシェルともっと話すことができれば――。
ナイフをテーブルに置いたルキは、懐から「南」と書かれた半透明の札を取り出した。
「ジェニミアルの札はまだ返してないけど。正式な手続きで手に入れてないから、ダメだろうなぁー」
『ロミさん、このまま2人で天界へ逃げませんか?』
ジェニミアルの契約者であるシラキさんから、そう誘われた時に見た札。
あの時はまさか、私が天界に行くことになるなんて、考えもしなかった。
「前も話したけどさ。東、西、南、北――4枚の札がないと、天界への通行証にはならないんだ」
「……その札をもってる4体って、だれなの?」
そう尋ねると、ルキは金銀の瞳を丸くした。
「君……本気で天界に行こうとしてる?」
僕を置いて――と、悪魔の主人は宣うが。先に方法を教えてくれたのは、そっちではないか。
「アンタは一緒に行けないの?」
「とーぜん。追い出された身だからねぇ」
そういえば、能天使ミカエルが言っていた。ルキは元天使だったと。
もし天界に行けたら、私が神様に会って、ルキの権能の制限を解いてくれるようお願いする機会はあるだろうか――。
そうしたら、ルキに対して抱く既視感や、違和感についても判明するかもしれない。
「ん? そんなに見つめちゃって、また愛してほしくなった?」
「……黙らないと滅す」
胡散臭い笑顔を見上げ、改めて口にした。
「天界に行ってみたい」と。
「ミシェルに会いたい……あと」
「あと?」
ルキの権能のことについては、言わない方がいいだろう。
「ううん……とにかく教えて。どうすれば札を手に入れられるのか」
匙を止めたまま、ルキの言葉を待っているのだが――この悪魔、あからさまに嫌な顔をしたまま口を開かない。
「ルキ……?」
「はぁ、分かったよ。明日『東』のところへ連れていくから」
悪魔の名前は意地でも口にしたくないらしい。
いつもの微笑みを浮かべつつ、悪魔は肉を切り分けはじめた。
「はい、あーん」
「……ん」
どうせ自分で食べないくせに切るのだから、私が処理しないともったいない。
本来は魂しか食べない悪魔が、こうして人間の食事の真似事をするのは、やっぱり妙に感じる。
でも――。
この空間に心地良さを感じつつある私が、一番おかしいのかもしれない。
翌日、黒い朝靄の中。
まだ目が覚めないうちに、悪魔は人を抱えて車に乗り込んだ。
もう「東」の札をもつ悪魔のところへ行くのか――運転席に誰もいない車は、枯れ木だらけの一本道を抜け、大都市に向かっていく。
「あれ……? こっちって確か」
「うん、着いてからのお楽しみってことで」
降ろされたのは、現代的な一軒家の前。
ここは悪魔たちが働く役所、魔役所。ルキは仕事に来たのだろうか。
「あらま! お嬢ちゃん、まだ食べられてなかったの」
「ええと……まぁ」
受付嬢の悪魔ヴェパルは、今日も人魚姿の悪魔たちに爪を整えられていた。
こちらを不思議そうに眺める彼女への挨拶もそこそこに、ルキが向かったのは――。
「こちらは魔役所の一般手続きを管轄しております、人間管理軍……あぁ、また貴方たちですか」
B3フロアの主、ダブルコートの堅物メガネ――もとい【暴風の悪魔】アマイモンだった。
「……ご主人様、まさか彼が」
笑顔を歪めているルキを見上げると、「うん!」と軽やかな返事が返ってきた。
「『東』の札を管理する、四方の悪魔の一角さ」
まさか、あのアマイモンが天界への鍵を持っていたなんて。
昨日のエレベーターの中での言葉が、今も耳の奥に残っている。
『悪魔に気を許さないことですね、人間』
地味でおとなしいように見えて、この悪魔の腹の中に渦巻く闇は底がない――。
曇ったレンズの奥を見つめていると、堅物悪魔は「何のご用でしょう?」と眼鏡のブリッジを引き上げた。
「本日は新魔研修で忙しいのですが」
「あぁ、だから君が直々に挨拶してたわけだ! さすが」
「さすが」、に込められた悪意を感じ取ったのか、アマイモンはこちらに背を向けた。
「あっ、待ってください! 実は……」
天界に向かうため、東の札が欲しい。
事情を簡単に話すと、アマイモンはこちらに向き直った。
「地獄新法第291箇条。『四方の悪魔の地位に属するものは、「契約者人」より申請があった場合、いかなる事情でも試練を与えなければならない』」
「……はぁ」
さすがはルキが「歩く地獄法辞典」と称するだけのことはある。
「私の試練は、求める者の『知』を試すものです」
「知識? それとも知力かな? 僕のロミは悪魔の専門家だよ?」
さすがに、この悪魔ほどの記憶力はない。12歳まで通っていた学校でも、成績はそこまで良くなかった。
ただしルキの言う通り、悪魔に関する知識ならそこそこある。
「いいえ。私が試すのは、あらかじめインプットした知識ではありません。とっさのことに対応できる『頭の回転』……それこそが、経験によって培われた『知』の力を計るに相応しい試練です」
つまり、とアマイモンはこちらを見下ろした。
眼鏡の奥の、赤い瞳が妖しく光る――。
「ローズマリー・セージ。貴女には、私の秘書になっていただきます」
「……はぁ?」
私が答えるより早く、ルキは「なんで」とアマイモンに詰め寄った。
やはりこの悪魔、彼の前だとネコを被りきれていない。
「私の側に常に寄り添い、不測の事態に備えなさい。本日の終業時間まで、貴女には私の秘書になっていただきます」
アマイモンはとうとうルキを無視して、同じ言葉を繰り返した。
この2人、どちらが役職的には上なのだろう――。
「決めるのは貴女です。試練を受けますか?」
「え、はい……もちろん」
「よろしい。では早速、こちらの新魔たちへの業務指導をサポートなさい」
こちら、とアマイモンが示したのは、まだ害がなさそうな小さい悪魔たちだった。
「人間がアマイモン様の秘書だって?」
「老婆ミテェな白髪アタマだぜ」
可愛くても悪魔は悪魔。アマイモンの忠告は、痛いほど身に染みている。
何かあれば、太もものナイフをチラつかせればいい。
「ではまず彼らに示す見本として、ロールプレイの相手になりなさい。『主人の悪魔と所有届を出しに来た人間』という役で」
それはまさに、昨日の私たちと同じ状況だ。
音もなく眼鏡を引き上げたアマイモンの指示を受け、窓口の外側へと立った。
「すみません。所有届を出しに来たのですが……」
人間役、こんな感じで良いのだろうか。
「ではこちらの用紙にご記入ください。注意していただく点は――」
さすがは「統括」。分かりやすい説明に無駄のない動きだ。
現世で最近発明された『コンピュータ』という精密機械を難なく操り、業務を効率的にこなしている。
悪魔にしては珍しく勤勉なアマイモンの仕事ぶりに、思わず釘付けになっていると。
「ストップ」
真横でこちらの様子を観察していたルキが、「問題あり」と手を挙げた。
「……反転の方。今のどこに問題が?」
一歩進み出たルキが、なぜか私の両頬に指を伸ばした。2本の指が、口角を引き上げる。
「『笑顔』! サービス業に笑顔は不可欠だろう?」
「はぁ……?」
笑顔とは真逆の表情になったアマイモンに、ルキは引き続き笑いかけている。
この悪魔たち、衝突せずにはいられないのだろうか。
「近頃の人間社会では、仕事を『安全』・『迅速』・『正確』にこなすのと同じくらい『態度』が重視されるんだってさ」
言いながら、主人の悪魔は笑いを堪えている。
たしかにアマイモンの凄まじい形相を見ていると、思わず吹き出しそうだけれど――。
「ここは地獄の公共機関です。そのようなサービス、必要性を感じませんが」
「やっぱり所詮は中世の悪魔だなぁ。人間と文明レベルを合わせることが、この冥界には必要だって通知……君は見てないの?」
雲行きが怪しくなってきた。喩えではなく、実際にフロアの天井に黒雲が立ち込めている。
これは天候を操るアマイモンの権能――【暴風】か。
稲光と風が起こりはじめたところで、睨み合う悪魔たちは「笑え」、「笑いません」と何度も繰り返している。
そうする間にも風が強まり、B3フロアが嵐の海のように荒れていく――。