14.ネコの舌
私は――。
この胸にいまだ燻る炎を、いま消さなければ。
「彼を、許します……」
沈黙する金銀の瞳が、静かにこちらへ向く。
そして――悪魔は笑った。
「あぁ。本当に君の魂は気高い。死後も成長する、柔らかくて温かい……唯一無二の魂だ」
「でも」、と悪魔が囁いた途端。
椅子が傾き、ルイスは奈落へ落ちていった。
喉を裂くような叫び声が、次第に遠くなっていく。
「……どう、して?」
「ごめんね、ロミ。最初から君に選択権はなかったんだよ」
私が己の中の無念や憎しみとどう向き合うのか、それだけが見たかった――悪魔の声が、空っぽになった頭を巡る。
「そんな……」
無意識に太ももを探る指先が、ナイフに触れる。
どうして――?
頬を伝う涙を弾き、悪魔にナイフを突き立てようとした瞬間。
振りかざした腕を、白く清らかな手に止められた。
「彼の裁定は正しい。あの者の罪は裁かれるべきもの……どうか少女よ、鎮まりなさい」
「でも……!」
憎しみを口にしようとした、その時。
ナイフを握る手に、白く細やかな指が触れた。
ビクッと震える身体を、天使――ミシェルが無言で引き寄せる。
「ミシェル……ねぇ、私のこと覚えてるんでしょ? どうして何も言ってくれないの!」
憎くて、愛しくて――死後も決して忘れられなかった顔が、寂しげに笑った。
そして。
優しい熱が、唇に触れた。
「……っ!」
手からナイフが滑り落ちる。
ミシェルの薄い唇が、ただ静かに、私の熱を感じていた――ルキに腕を引かれるまで、時が止まったかのようだった。
触れていた熱が、いつまでも唇に残っている。
「ごめんなさい。私はまだ力がないから……地獄では、何も言うことができないの」
私が「能天使」になるまで待ってて――ミシェルはまっすぐな視線とともに、そう呟いた。
「どう、して……」
それ以上は聞くことができないまま、『面接室』の見学会は終わりを告げた。
新任天使は上司に連れられ、天界へ帰っていったのだ。
逆さ吊り屋敷に帰った後も、あの青が頭に焼き付いて消えない。
あの時の澄んだ碧眼は、こちらの目を貫いて、どこか遠くを見ているかのようだった。
「ミシェル……」
ベッドで仰向けになり、天井に吊られているテーブルや椅子を眺めても、彼女のこと以外考えられない。
せっかく会えたのに、許し合うどころかまともに言葉も交わせなかった。
「能天使」になるまで待ってて――彼女から得た言葉は、それだけだった。
それに。
「……キス。どうして……?」
身体は男性に変わっていたが。
彼女とのキスは、悪魔とするものとは全然違う感覚だった。
深いため息が、口からこぼれる。
「……ん?」
今、天井のイスが軋んだような――。
「……人が落ち込んでるの見て、楽しいわけ?」
すると。姿を現した悪魔は、天井からベッドへ音もなく降り立った。
帰りの車でも終始無言だったのに、まだ無言。
しかも帰ってからずっと、ネコ頭になっている。
「ねぇルキ。あれ、本当にミシェルなんだよね?」
『ああ』
本当に口数が少ない。
まるで、現世で会った時のネコ頭に戻ったみたいだ。
「はぁ……やっぱりミシェルで間違いないよね。せっかく話せると思ったのに」
『いずれまた巡り会える。貴様の中に残留する愛と憎悪を、無駄にはしまい』
愛と憎悪――それらが頭を回る間にも、見た目に反して軽い身体が上に乗ってきた。
ネコ頭は、無言で黒のタイを解く。
はだけた喉にフワフワの毛が触れ、思わず身をよじった。
「あっ、ちょっと……くすぐったい」
ザラザラした舌が、下から上へと、首筋を丁寧に舐めている。やがて舌は、顎から唇へ移った。
「……っ」
小さな棘のようなものが、唇をしつこく撫でている。
「……待って!」
引き離そうと暴れるが、手はネコの尻尾に束ねられ、足は大きな身体に押さえつけられていた。
「いっ、痛いんですけど!」
『天使に浄化された唇を、再び俺で穢しているだけだ。我慢しろ』
地獄の責め苦に比べれば軽い――そう簡単に言うネコの毛を、少し強く掴んだ。ふわふわの黒い毛並みをかき分け、尖った耳を引っ張るも、ルキは止まらない。
人間と同じ形を保った冷たい指先が、スカートの中の肌を滑っていく。
誘うような、この指は――。
「……するの?」
『ああ』
「じゃあ、せめて人型に戻って……」
『駄目だ。今夜はこのままする』
何だろうか。
この悪魔、珍しく余裕がない。
「……もしかして、ミシェルに嫉妬してる?」
持ち上がる口角を抑えつつ尋ねると、金銀の猫目が妖しく光った。
瞳に宿る強い力に気圧され、唇が動かなくなる。
『二度目だからな。優しくしてやろうと思ったが……気が変わった』
「え……?」
どれくらいの時間が経ったのか。
悪魔がようやく放してくれたのは、私の声が出なくなってからだった。
『……おい、こちらを向け』
いやだ。
そう言いたいが、喉が枯れている。
悪魔は私の頭をそっと撫で、温かい何かで身体を清めていた。
「痛っ……」
『……すまない』
悪魔が謝るなんて――と思っても、やはり声は出ない。
前回とはまるで違う、まったく別の行為だった。
息が苦しい。強すぎる快感の余韻に、身体がまだ震えている。
ネコ頭の強靭な背中に突き立て、割れてしまった爪。それを慰めるように舐める様子に、謝罪が心からのものだと錯覚しそうになる。
それでも、ザラザラした舌が余計に痛くて、そっと手を払うと。
『お前の心を繋ぎ止めるには、どうしたらいい?』
消え入りそうな声に、閉じかけていた目が開いた。
心を繋ぎ止める――?
悪魔はフワフワの額に私の手を寄せ、告白した。
私がミシェルに口付けられた時、「自分自身で解さない感情が生まれた」と。
『悪魔は、この方法しか知らない。こうすることでしか、お前の愛を求められない』
「……それがアンタの素、なんだ」
やっと声が出た。
珍しくしおらしい悪魔に、「伝えたい」と思った瞬間のことだった。
「アンタがネコ被らないで、そのまま……こうやって、私を抱きしめてくれたら……いいと思う」
頬を舐めるネコ頭に腕を伸ばし、胸の中に抱き寄せると。
ルキは黙って、抱きしめ返す腕に力を込めた。
温かい――。
この悪魔は私に嘘を言っているのではなく、愛したくても「悪魔であるが故に愛せない」のではないか。
そんな、らしくない期待を抱いてしまった。
ただ、やっぱり自分に執着する理由がわからない。
初めて会ったのは、最後の牢獄のはずなのに――。
触れ合っていると、なんとなく懐かしい気がしたこともあった。過去の記憶を見た時、ルキはなぜか私の名前を知っていた。
それでも、生前のルキに関する記憶は、あの牢獄の中だけだ。
「起き上がれるようになったらさ、食事を運んでくるよ!」
いつの間にか、悪魔は人間を模した姿に戻っていた。久々に聞いた、ネコ被りの声がなぜか安心する。
もう起き上がれる――いつの間にか、制服もきちんと着せられていた。
「君の好きなカブのポトフ、食べるかい?」
「……食べる」
直々に食事を運んできた悪魔と、円卓の席で向かい合う。
人間の五感に合うよう調整され、さらに最近は味まで良くなっていく豪華な料理。
この異様な光景が、いつの間にか日常になりつつある。そしてそれを受け入れつつある自分がいる――最後に悪魔の顔を焼いたのは、いつだっただろうか。もう記憶にない。
「さぁ、召し上がれ!」
「……ありがと」
目の前の悪魔が、ネコ被りの笑顔を解いて固まった。
その反応に、ようやく気づく。
いま初めて、悪魔にお礼を言ってしまったのだと。
「……してもらったことに対してお礼を言うのは、人間の礼儀だから」
「うん」
悪魔は小さく頷くと、驚いたように顔を背けた。
それは私の言葉に驚いたのか、それとも――。
「ミシェルのこと、だけどさ」
「……え?」
彼女に嫉妬していた悪魔が、自分からミシェルのことを話題に出すなんて、どういう風の吹き回しだろう。
なかなか次を紡がない悪魔を横目に、スープをすくうと。
「天界に行けば、ミシェルと話せるんじゃない?」
ルキの提案に、匙を止めた。
「力の弱い天使は、人間とあまり言葉を交わせないんだ。でも、彼女たちの住む天界でなら」
それは、つまり――。
「待って。私、天界へ行けるの……?」