12. 新任天使
そう、あれはミシェルではない。
ルキが書類の束の上へ放り投げた、新聞紙の見出し――『500年ぶりの天使昇格試験合格者』を見つめていると。
「大変だぁ! 天界の外相官がアポ無しでこっちに向かって……」
エレベーターから飛び出してきたヒラ悪魔が、突然床へ倒れ込んだ。
その背後には、2つの神々しい影が――。
「アポ無しとは失礼な物言いだ。事前にルシファー様を通したはずだが?」
眉間にシワを寄せているのは、輝く銀翼を背中に生やした長身の男性――いや、女性。
彼女の纏う光のおかげで、ひと目で「魔」ではないと分かる。噂に聞く『天使』という存在だろう。
そして斜め後ろにいる、金髪碧眼の青年は――。
「ミカエル様、5分前の連絡はいささか急ではなくて?」
どこかで見た覚えがある顔立ち――でも、男性だ。
「彼女」は私より背が低かったし、華奢だった。
あの天使はミカエルより小柄ながらも、白衣から伸びる腕はたくましい。
「違う……そんなわけ、ない」
ミシェル・ホーリー。
王宮メイドとして同期入職した、同い年の田舎娘。「病の治癒」という稀有な力をもって生まれた聖女――唯一無二の親友にして、人生最大の仇敵。
『あなたもランドリーメイド? 私も!』
あの時の眩い笑顔を、死後も忘れることはできなかった。
そして金髪碧眼の清廉な天使を目の前にした今、確信してしまった。
これほどまでに狂おしい感情を抱く相手は、あのミシェル以外にあり得ないと――どう見ても男性だが。
「あーあ。この記事、もう否定できないね」
天使昇格試験合格者、新任天使ミシェル――人を抱えたまま離さない悪魔が目の前に掲げたのは、あの新聞紙。
「でも、どうして……?」
同じ地獄へ落ちたとばかり思っていたのに。
嫉妬のすえ人を魔女と告発した彼女が、なぜ天使になっているのか。
いや、その前に。
「男……?」
凛々しい銀翼の天使に付き従うミシェル(?)は、一切こちらに視線を向けない。
「それにしてもマズいなぁ。厄介なやつが来ちゃったよ」
ルキの黒い爪先が指したのは、すらっと背の高い高貴な天使――天界の大物ミカエル。
「ルキフェルト様はおられるか? 約束をしているのだが」
エレベーター前に倒れたヒラ悪魔を踏み越え、ミカエルがフロアへ入ってくる。するとカウンターを飛び出したヒラ悪魔その2が、「横暴だ!」と叫んだ。
「いくら偉い天使だからって、こんな扱いが許されるのか!?」
しんと静まり返ったホールの温度が、みるみるうちに下がっていく。それはもう、本当に息が白くなるほどに。
「この下級悪魔には『アポ無し』という虚偽の申告をされたのだ。善の名の下に制裁を加えたまでのこと」
退魔師の家系として、魔を滅したい気持ちは同じだが。ミカエルの天使とは思えない氷の視線に、ヒラ悪魔が少しだけ哀れに思える。
「まったく仕方ないなぁ」
主人の悪魔は人を膝から降ろし、カウンターを軽々と飛び越えていった。
「やっ、ミカエル。今回はどんな御用かな?」
「ルキフェルト様! 久しいですね。今回は新人の紹介も兼ね、100年に一度の魔役所抜き打ち監査に参った次第です」
この寒暖差はどういうことか――嫌いな生き物に遭遇したような目でヒラ悪魔を見下していたミカエルが、ルキに対しては深々と頭をたれている。
「まだ研修中の身ではありますが、先日天使昇格試験に通った者です」
「ご挨拶なさい」とミカエルに促されると。その背後に仕えていた新任天使は、純白の裾を広げお辞儀をした。
「ミシェルと申します。無階級の身ではありますが、何卒よろしくお願いいたしますわ」
この甘みを帯びた高音も、やはり彼女――今は少し声帯が低くなっているみたいだが。
「この者に、ぜひルキフェルト様のお仕事を見学させてやっていただけませんか? 地獄でも重要な役割をもつ、『魂の選別』を」
魂の選別――ミシェルの魂を探し出すはずだった、ルキの仕事。
「まぁ、別にいいけど」
ルキがこちらを一瞬振り返った。
その目が「君はどうする?」と言っている。
「どうするって……」
ルキとふたつ目の契約を交わしたのは、ミシェルの魂を探し出すため。でも、彼女は今目の前にいる――本物かはまだ分からないが。
ミシェルの青く澄んだ視線は遠くにあり、こちらを見ようとしない。
「僕の契約者も一緒にいいかな?」
「ええ、もちろん。さて、『審判の間』……あぁ、今は『面接室』でしたね。そちらへ参りましょう」
隙を見て、ミシェルと言葉を交わせるかもしれない――。
頭と胸が大きく脈打つ。
荒くなる息を抑え、エレベーターへ乗り込む天使たちに続いた。
「休職中だとうかがっておりましたが、お姿を拝見できて良かった」
「いやー、本当に偶然! 今日から復帰したんだよねぇ」
ミカエルはルキのすぐ横に並び、満足げに微笑んでいるが――ネコ被り具合を見るに、ルキはミカエルをあまり得意と思っていないようだ。
むしろ素が出ていた、アマイモンの方が気を許していたような気がする。
「ルシファーのやつ、監査があるって分かってて僕を復帰させようとしたわけかぁ。ミカエルの相手をさせるためにね」
突然振り返って何かと思えば。天使同士がヒソヒソ話している間に、主人の悪魔は愚痴をこぼしはじめた。
「ところで、なぜかミカエル様はご主人様を尊敬なさっているように見えるのですが」
「それはですね、人間の少女よ」
名を呼んだことで反応したのか、いつの間にかミカエルがこちらを向いている。
そうして天使の口から明かされたのは、初めて耳にすることだった――ルキが堕天使の悪魔だと。
「え……ご主人様、元天使だったのですか?」
ルキの顔に表情がない。
薄暗い「無」にゾッとすると同時に、ルキはネコを被った。
「も〜! 言わないで欲しかったなぁ」
冗談めかしたルキを気にすることなく、ミカエルは「それは立派な天使長だったのですよ」と続ける。
「現在私が務めている、能天使のリーダーの先任、つまり大先輩なのです」
能天使――そんなこと、まったく知らなかった。
人を弄んで楽しむあの気質、「根っからの悪魔だから」だと疑わなかったのだ。
「いつか神の怒りを買い、天界から堕ちてしまわれましたが……」
いつだったか。
祖母がインゲン豆のスジ取りをしながら話していたのは、堕天使の中でも有名なルシファーの話。
熾天使という、能天使よりも高い位に就いていたルシファーは、仲間の天使たちを誘って神に叛逆したという。
もしかすると、ルキも――。
口を結んだままの悪魔は、いつものネコ被り顔で笑っている。
「少女よ、悪魔には3種類のルーツがあることは知っていますか?」
「え……はい。たしか」
「神」、「天使」、「霊」――そのため悪魔を正確に分類すると、魔神、堕天使、悪霊と分かれる。
「よく勉強していますね、人間の少女よ」
祖母から得た知識を話しただけだというのに、頭を撫でられた。
この天使、悪魔には理不尽な扱いをするものの、人間には甘いようだ――いくら人間とはいえ、悪魔と契約して地獄に落ちた身なのだけれど。
「ミカエル様としては良いのですか? いくら先輩とはいえ、ご主人様はいわば天界の裏切り者なのでは?」
「あぁ、叛逆したい気持ちは分かりますからね。神に仕えていると、うっかり手元が狂って神殿を攻撃しそうになることがあるのです」
祖母が熱心に祈りを捧げていた神とは、いったい――想像する間もなく、エレベーターが停止した。
ドアが開いたその先は、何者をも弾くような黒い壁、天井に囲まれた小部屋。
簡素な椅子が、2脚だけ向き合っている。
「ようこそ! 『落ちる』か『巡る』か――魂の選別を行う地獄の『面接室』へ」
ルキの明るい声を、その部屋の黒さが吸収してしまうかのようだった。
結局、エレベーターの中でひと言も発さなかったミシェルは――。
闇だけがあるこの空間を見て、寂しげに微笑んでいた。