11.擬似オフィスラブ
『B3の全職員に命じる! この紙に己の契約印を記せ!』
悪魔の気まぐれとは分かっていても、ルシファーが頼もしく見えてしまった。
そして相変わらず、当事者の悪魔はどこかに隠れている。
「お待ちください、ルシファー様。勝手に復帰試験を終えられては困ります」
あぁ、やっぱり――。
あの堅物悪魔が、出てこないはずがない。
レンズ越しの目を光らせたアマイモンの抗議に対し、ルシファーは「オレ様が決めたことなんだけど?」とふんぞり返っている。
「昔とは違うのですから、すべてが貴方様の思う通りにはいきません。無茶を仰るならばコンプラ軍に報告させていただきますが」
「え〜。でもルキの復帰試験なんだろ? アイツいねぇと、オレ様の仕事増えんだけど」
「……それは」
周りを見渡しても、やはりルキの姿がない。まったくあの悪魔、こんな時にどこへ行ったのか。
ルキに職場復帰してもらわなければ、私も困る。
見つめ合う――というより、睨み合う大男たちから一歩離れ、無言の行く末を見守っていると。
「ルシファー、そろそろよ」
上級悪魔が火花を散らす重圧の中、割り込んだのは――。
「あー。理世、時間か?」
「天界から使者が来るまで、あと30分もないの! 『ミカエル』は時間に厳しいんだから!」
ルシファーにあの態度。
やっぱり彼女、ただものではない。
「アンタも! 争ってないで、働きたい悪魔は働かせた方が魔役所のためになるんじゃないの!?」
「……はぁ」
すごい。アマイモンまで言い負かしている。
彼女、生前はただの一般人ではなかったのでは――。
ひとり考える間にも、ミチヨさんは「またね、ロミちゃん」と笑顔で手を振っている。そのまま、ルシファーを引っ張り、行ってしまった。
「ええと……」
しんと静まり返るB3フロアの中央で、立ち尽くすアマイモンと2人。
言葉が見つからないままでいると、深いため息が頭上に降ってきた。
「近頃は奴隷……失礼、契約者が生意気で困りものですね」
それを私に言うのか。
眼鏡のブリッジを引き上げる悪魔は、背筋を伸ばし、こちらに向き直った。
「来なさい、ローズマリー・セージ。気の早いお方のところへご案内します」
なぜか名前がバレているし、拒否権は最初からないようだ。反論する間もなく、昇降機という鉄の箱に乗せられた。
気の早い、とは、おそらくルキのことだろう。
それにしても、わざわざ案内してくれるなんて――ツノはないし、瞳さえ見えなければ、アマイモンは人間の男性に見えなくもない。
「何か申し上げたいことでも?」
「いえ、別に」
ちょっとだけ親近感が湧いた、なんて言えるわけがない。
「……貴女は首輪付きですが。もし誰のものでもなかったならば」
突然、狭い箱の中の空気が揺らいだ。
冷たい風が全身を包む。
息が、できない――。
『その稀有な魂を、私の嵐の中へ連れ去っていた』
鼓膜を震わす低音が響く。
これが、アマイモンの本性――。
唯一動く指で、スカートの中のナイフに触れた瞬間。
「悪魔に気を許さないことですね、人間」
「っ、はぁ……!」
楽になった肺が膨らんでいく。
潤む視界の中見上げた顔は、元通りの澄まし顔だった。
あの当てにならない事典によると、アマイモンの権能は天候を操るものだったはず――今のは何だったのか。
「おや、着きましたね」
いつの間にか、壁の表示が「B3」から「B666」へ変わっている。
息を整える間にも箱が止まり、ドアが左右に開いた。
「ようこそ新人さん! 僕はこのフロア、『司法軍』の代表ルキフェルトさっ」
まったく、どこへ行ったのかと思えば――。
それが魔役所で働く時の正装なのだろうか。いつもと違うスーツを纏ったルキは、さらに前髪を上げている。
「……何をなさっているのですか、ご主人様」
「いやー、堅物メガネ君の無茶ぶりは、ロミがどうにかしてくれそうだったからさ! ひと足先に準備して、僕の仕事してる姿に惚れ直してもらおうかなぁって」
惚れ直すもなにも、惚れてすらいない。
その格好は――まぁ、悪くないと思うけど。
「……それでは、確かに送り届けましたので」
「これにて失敬」、とアマイモンは再び箱の中へ戻っていった。
やはり、ルキ以外の上級悪魔と2人きりは危険かもしれない――まだ速い鼓動を感じながら、ルキを振り返ったところ。
いつも以上にネコを被った、満面の笑みで迎えられた。
「職業体験へようこそ、セージさん。さっそく仕事内容について説明するね」
「えっ……真面目な顔で何を始めたんですか?」
「君の仕事は僕の膝の上にいること、それだけです」
前言撤回。真面目ではなかった。
こんな茶番は置いて、「さっさと働いて」と抗議したが。荷物のように担がれ、イスに腰かけたルキの膝に乗せられた。
しかもこの悪魔――机に積み重なった書類の束には見向きもせず、人の髪をいじって遊んでいる。
「ご主人様、仕事は?」
「ここではルキフェルト様と呼んでくれないかな?」
こちらに非があるかのような不満顔で見下ろされ、その顔を思わず滅しそうになった。しかし我慢しているうちにも、悪魔の暇つぶしがエスカレートしていく。
「ねぇ、たまにはロミからキスしてほしいなぁ」
「はぁ? ちょっとやめっ!」
ベタベタと触れてくる悪魔の手を払いつつ、慌てて周りを見回すと。フロアの悪魔たちはこちらに見向きもせず、机の上に溜まった書類と格闘している。
いや。よく見ると、「あれ、ルキフェルト様なのか?」と動揺している悪魔もいた。
「アンタが作り上げてきた職場のイメージ、崩れかかってるみたいなんだけど?」
「そんなのどうでも良いさ。ね、それより」
ここでする――?
耳をくすぐる囁きに、時が止まったような気がした。遅れて顔が熱くなる。
「なっ……!」
まさか本気じゃないだろう。人を揺さぶって楽しんでいるに違いない。
金銀の瞳を見上げると、「本気だよ」と目が細くなった。
「え……だって」
この悪魔、周りにいる部下たちが見えないのか――。
「このフロアにいるのは悪魔だけだよ? 人間たちの感覚で言うと、『上司がランチを食べてる』くらいにしか思わないはずさ」
「そんなわけあるか! 離して……」
しつこい悪魔に対して、そろそろナイフを構えようかと準備していたところ。
『号外! 冥界新聞社ヨリ届ケ物ダ』
「わっ!」
突然、壁をすり抜けて現れたのは、いつか見た大ガラス――フロアの天井を飛び回りながら、肩かけポーチから古紙を撒き散らしている。
助かったが、いったい何事だろうか。
「なになに? 『500年ぶりの天使昇格試験合格者』……へぇ」
厚紙を見つめるルキの目が、一瞬暗くなった。
天使が試験制度で選ばれていたことに驚きつつ、ルキの手から新聞を奪い取ると。
「新任天使、生前名ミシェル・ホーリー……?」
彼女――私の知るミシェルと、同姓同名。
でも、そんなはずはない。
「これは、君の親友にして仇敵の名じゃないか」
目の前の悪魔は、暗く光る金銀の瞳で、じっとこちらを見つめている。
人が困惑する姿を楽しんでいるのだろう。
「……この新聞に載っている方は、私の知る彼女ではありません」
理由はどうあれ。
人を「魔女」と告発した上に死へ追い込んだ彼女が、この地獄以外の場所にいるはずがない。
「アンタ、また私を揺さぶって楽しんでるだけでしょ? ミシェルなんて名前ありふれてるし」
「ホーリーのファミリーネームはありふれていないと思うけど?」
誰が何と言おうと、これはあのミシェルではない――再び断言すると。ルキは人の手から新聞紙を取り、書類の束の上へ放り投げた。
「だよね! いやー君の焦った顔、面白かったなぁ」
まったくこの悪魔は――。
「面白そう」という好奇心だけで、人のトラウマを気安く弄ぶのだから。
それにしても。
「ミシェル・ホーリー」
新聞に記されていた名前が、頭に焼きついたまま消えない。
きっと別人――そうに違いないのに。