10.所有届≠婚姻届
丁寧な説明をしてくれたヴェパルにお礼を告げ、小舟――モーターボートというものに乗った。それで彼女の流す川を下り、向かうのはB3フロア。
禍々しい色の水飛沫が頬を打つ間にも、ルキは人の手を握ったまま離さなかった。
ルキが「苦手」と称した【暴風の悪魔】アマイモンとは、どのような悪魔なのか――。
「ご結婚おめでとうございます!」
これはいったい――?
おそらく現代の役所を模したと思われるフロアは、異形の悪魔たちで溢れていた。その中心にいる悪魔とその契約者らしき人間に、フロアの悪魔一同が拍手を送っている。
「おめでとうございます、我が配下とその番」
先頭に立っているのは、黒縁メガネにかっちりとしたダブルコートの悪魔。
「おや、探す手間が省けたね」
「もしかしてアレが……」
筋肉ヒゲだるまどころか、ひょろっと背が高く線の細い男性ではないか。
祝福している割に真顔。しかも眼鏡のレンズが磨かれすぎて光り輝き、奥にあるはずの目が見えないほどだ。
「ていうか、地獄に婚姻制度あるんですね」
「もちろん! 現世での契約は人間と悪魔の間で結ばれただけのものだけどね。ここに第三者、魔役所の承認が加わることで、より深い絆で結ばれることになるんだよ」
人間同士のものと違い、どうせろくでもない誓いを立てているに違いない。
何より私には、縁のない話だ。
「そういうわけで、僕らも出そうか」
いつもよりさらに深い笑顔――念のため、ルキが手にしている書類を確認すると。
「ちょっと待て! 所有届はこの際仕方ないとして、婚姻届を出していいなんてひと言も言ってないんですけど?」
「大丈夫、どっちも『僕のもの』って証明するだけでたいして変わらないから」
まったく、油断も隙もない。
強引に窓口へ向かおうとするルキを追いかけようとしたが、悪魔の密度が高くて前へ進めない。
「ちょっと待っ――」
「地獄新法第153箇条。『契約または手続きに関して、『契約者悪』は『契約者人』が不利益を被るような説明をしてはならない』」
何やら唱えながらルキの手を掴んだのは、向こうでカップルを見送っていたはずの彼――暴風の悪魔アマイモンだ。
静かになった悪魔たちの間をすり抜け、ようやくルキのそばに寄ることができた。
「はぁ〜出た出た、歩く地獄法辞典さん」
掴まれた手を払うルキに対し、アマイモンは掴んだ手に『除菌スプレー』と書かれた瓶のミストを吹きかけている。
「久しぶりですね、『反転』の方。永久休職中だと旋風の噂で聞きましたが」
「また配下を使って聞き耳立ててたの? 感じ悪ーい」
ルキがネコを被りきれていないなんて――とにかく、このままでは話が進まない。
「ご主人様、まずはさっさと所有届を出されては?」
「あぁそうだったね! 堅物メガネ君に絡むのはそれからだったよ」
とりあえず婚姻届、ではなく所有届を出し終えて、それから話を――と思ったのだが。
2人分の署名がなされた書類を提出した瞬間、黒い首輪が勝手に首へ巻きいた。
「……なんですか、この犬みたいな扱いは」
「これは他の悪魔にも見えるように可視化した所有の証なんだよ。ほら、シラキもしてたでしょ?」
「お揃いだよ?」、と意味の分からないフォローを入れる悪魔は置いて。
確かにこれをしていれば、他の悪魔に襲われる心配はないはず――たいへん不本意だが。
「それで、私に用とは? 本日は古巣であるB3の視察で忙しいのですが」
口を開けば言い合いをはじめそうなルキに代わり、「職場復帰のことで」と切り出した。
悪魔にしてはまともに話を聞いてくれたアマイモンは、「なるほど」と眼鏡のブリッジを引き上げる。
「ようやく面倒な同僚がいなくなった……失礼、『諸事情で休職なされた』とうかがっていたのですがね」
「地獄は『無職を許さない社会』とお聞きしました。ですから、ご主人様には働いてもらわないと」
こういう秩序と制度を重んじる悪魔には、「決まり」に則った理由を話せば分かってもらえるはず。
生前の経験を活かし、そう告げたのだが――アマイモンの表情は曇ったままだ。
「はいそれでは……と、人間の言うことを聞き入れる私ではありません。要望を通すつもりならば、それなりに力を示していただかなくては」
「『力』? 権能で殴り合いでもする?」
人を抱え込んだまま離さないルキが、ようやく口を開いた。
笑顔で殴り合いを提案するとは、さすが悪魔――。
「では、かかってきなさい……と、19世紀までの私ならば申し上げていましたが。現在はコンプラというものが存在しますからね」
「コンプラ?」
記憶同期した中に、そのような単語があった。
たしかルールを守るという意味だったような――。
「では、穏便にこうしましょう」
アマイモンの眼鏡の奥の、赤い瞳がこちらを向いた。
やはり悪魔――その視線は、背筋が凍るほどに冷たい。
「貴女が主人のため、このB3フロアで働く悪魔全員から印をもらうこと。復帰条件はそれだけです」
「え……私?」
「簡単でしょう?」、と堅物悪魔は無表情で口にした。
「最高難易度の間違いでは?」
人間の自分がストレートにお願いしたとして、悪魔が素直に自分の印を書くわけがない。
「大変だねーロミ。むしろ勝負の方が早かったんじゃない?」
まるで他人事の悪魔を睨みつけた、その時。
「あっ……そうだ!」
そういえば、アマイモンは誰がサインをもらうかは条件付けていなかった。
魔役所勤めのルキの権能と顔を使えば、サインがもらえるのでは――。
「お断りします」
全員、即答。
「ええー、別の軍とはいえ上司だよ? そんな簡単に断っちゃう?」
なぜかB3フロア全員が、ルキに対して絶対零度の待遇だ。
「ルキに人望がないとしても、どうしてここまで……あ」
そうだった。ここはアマイモンが元々管轄していたフロアらしい。
元長と犬猿の仲であるルキに従えば、後が怖いに決まっている。
「だったらもう、力で訴えるしか……」
苦肉の策としてナイフと腕を構えると――先ほど「B3内は権能禁止なんだよ」と笑っていたルキに、神妙な顔でナイフを奪われた。
「そう簡単に魂を傷つけるもんじゃないよ」
退魔の血を利用しようとしているクセに、何を言っているのか。
「……私の勝手ですから」
急に真剣になった瞳を見ると、本気で心配してくれていると勘違いしそうになる――。
腕を握る黒い手を払い、四角い箱と向き合っているフロアの職員たちを見渡した。
こんな脅し、アマイモンほどの大物には通用しないかもしれない。
でも無名の悪魔ならいけるはず――ナイフを奪い返し、近くの窓口にいる羊頭の悪魔へ、用紙とペン、そしてナイフを差し出した。
「滅されたくなかったらサインください」
「ああん?」
羊頭に向けたはず――だったのに。
紙とペンは、窓口の向こう側へと吸い込まれていった。
「あ……すみません間違えました」
頭を下げつつ、ガラスの向こう側にいるお客様の顔を見上げると。
「オレ様相手に良い度胸だ、人間の女!」
目が合ったのは、鮮血のような色がにじむ瞳。
長い黒髪に黒い肌の大男――なんと、事典に記された姿と同じだ。
「【王冠の悪魔】ルシファー……?」
とっさにルキの方を振り返ったが、いつの間にか姿が見えない。
それにしても、目が合った時の衝撃で、まだ身体が痺れている――コイツ、たぶんルキより格上だ。
「ついでにこのオレの似顔絵も特別サービスだ。光栄に思え!」
「え……?」
似顔絵――超大物の印と、可愛らしくデフォルメされた顔の書かれた用紙が返却された。
意外とお茶目だ。
「久しぶりね、あの時のお嬢ちゃん」
聞き覚えのある明快な声。
「あなたは……」
『お嬢ちゃんも負けないで!』――地獄でもなお光を失わないあの瞳を、忘れるはずがない。
「待合室で話したお姉さん!」
檻の中で、一緒に悪魔の迎えを待っていた黒髪の東洋人らしき美女。
彼女の変わらない笑顔に、胸を撫でおろした。
「なんだ、オレの契約者37564号と知り合いか?」
「番号で呼ばないでって言ってるでしょ!」
ルシファーに肘を入れたお姉さんは、理世と名乗ってくれた。
優秀な彼女は、魔役所のトップであるルシファーの仕事を支える立場にあるらしい。
「して、これは何のサインだったのだ?」
「ええと、それは……」
赤い瞳をたぎらせているルシファーへ、顔を伏せたまま事情を話したところ。
「よし。そんなもの、さっさと終わらせてやろう」
「え?」と訊き返すと同時に、ルシファーは自分の喉へ鋭い爪を突き立てた。
『B3の全職員に命じる!』
増幅した声が、フロア中に反響する。
『すぐに業務の手を止め、この紙に己の契約印を記せ!』