プロローグ:猫の下
「お嬢ちゃん、どんな悪魔を待っているの?」
「…………え?」
驚いた。
誰もが神に祈るこの部屋で、まだ喋る余裕のある人がいたとは。
「どんな……あく、ま?」
何年、何百年ぶりに声を発したかのような気分で顔を上げると。黒髪の若い女性が、黒い瞳でこちらを見ていた――東洋人だろうか。
薄暗い待合室に入って以来ずっと俯いたままだったが、いつの間にかこんな美人と隣同士になっていたなんて。
「だからぁ、これから私たちの主人になる悪魔のこと。他はもうお迎えが来たでしょう? 残りは私たちだけよ」
彼女の赤い爪先を追って辺りを見回すと。青白い顔の亡者が箱詰めになっていた待合室には、このお姉さんと自分の2人きりだった。
「どんなって……ただのネコ頭です。黒い毛に金と銀の瞳の。体は人型でしたけど」
「ふぅん? なら上級悪魔かもね。これから行く『地獄』ってところでは、人に近い形の悪魔ほど力があるんですって。アタシに仕えていた彼は、人間と姿が変わりない色男だったわ。ムカつくほどの高慢ちきだったけど」
自業自得とはいえ、これから文字通り地獄の日々が待ち受けているというのに。彼女の黒い瞳は期待に染まってる。
「怖くないんですか? 死後は私たちが奴隷として働くことになるんですよ……そういう契約だったでしょう?」
死なない体で過酷な労働を強制されるとか。
魂を食べられて、二度と転生できないとか。
悪魔や地獄の話は、教会の礼拝をサボるたびに祖母から聞かせられた。
心に隙があると、悪魔が契約を持ちかけてくる。
死後その者の魂を得るために――。
『だからロミ、悪魔の言うことを信じちゃならんよ』
「……ごめんね、おばあちゃん」
「誰が『おばあちゃん』ですって!?」
「あ、すみません。天国の祖母と、心の中で会話していて」
すると凄まじい形相から一変、絢爛な美女は「そう」、と視線を鉄格子のドアへ移した。
「おばあさんは良い人だったのね。でもお嬢ちゃんは悪い子だった。だから地獄の待合室にいるんでしょ?」
悪い子――そんな優しい言葉で済ませられるような人間ではない。
「……お姉さんは何を得るために悪魔と契約を?」
「アタシ? 見ての通り、若さと美しさを保つためよ。享年64には見えないでしょ?」
「ろくじゅう……どう見ても20代くらいにしか見えません」
先ほどの『おばあちゃん』呼びに顔を歪めた彼女が、まさか祖母と同世代とは。
悪魔の力は万能なのか。
「あら、30代じゃなくて? 嬉しいこと言ってくれるわねぇ」
「でも……」
人智を超えた力を契約者に与え、いい気分にさせたところで手のひらを返す――悪魔が好むやり口だ。
「それでお嬢ちゃんは? そんなに若いのに死んじゃったなんて、何があったのよ。髪も真っ白だし」
あのネコ頭と契約した理由。
墓まで持っていった後も、誰かに喋るつもりはなかったが――。
「裏切られたんです」
だから、悪魔の力を借りて裏切り返した。
そう告白すると、興味本位の表情が青ざめていった。
「悪い子、なんて可愛いものじゃないですよ、私。あの時のことを思い出すと、今でも血が煮えたぎるような……」
「分かった、分かったわよ! もう聞かないから、その怖い顔やめてちょうだい」
怖い顔。
その程度で済んだのならば、うまく隠しきれたのだろう。この胸にいまだ燻る、あの憎悪を。
「ところで、ずっと気になっていたんだけど」
「はい」
「どうしてお嬢ちゃんメイド服なの?」
隣の美女は「コスプレ中に死んだの?」、とぎこちない笑みを浮かべた。
「コスプレ……?」
東洋では一般的な言葉なのか。不思議と美味しそうな単語の意味を、尋ねようとした瞬間。
「キャアァ!!」
鼻先を掠めていったのは銀の残像――いや、鎖。
「お姉さん!?」
鎖の先端が、彼女の両腕を拘束した。
その鎖を引くのは――。
「あ、アンタ、まさかルシファーなの?」
『畏レ多イゾ人間! 奴隷ナンゾノタメニ、ルシファー様ハオ越シニナラン!』
馬や魚など複数の生き物が混ざった怪物、下級悪魔。そして、その主はなんということか。
「お姉さん、結構な大物と契約してしまったんですね。地獄でもかなり力がある上に厄介なヤツと」
「え? え? ルシファーってそんなにスゴい悪魔なの?」
「厄介」という部分は聞き取れなかったのか。それにしても彼女、怪物のような悪魔に鎖を引っ張られても、変わらず瞳が輝いている。
『行クゾ人間! ルシファー様ガオ待チダ』
「ねぇ、使いっ走り! ルシファーって地獄でも色男なの? まさかアンタみたいな怪物じゃあないでしょうね!?」
長い待合の中でも、彼女のような人には初めて出会った。
「じゃあね、お嬢ちゃんも負けないで! 悪魔の言いなりになっちゃダメよ!」
地獄に落ちてもなお、希望を失わないなんて――。
「負けないで、か」
レンガ壁に囲まれた待合室で1人になった途端。もう止まっているはずの心臓が、ぎゅっと締め付けられた。
あの厳格なネコ頭が、地獄ではどんな態度をとるのか。
自分もあんな目に遭うのか――。
「よぉ。ひとりになっちまったねぇ」
格子窓の外からこちらを覗いているのは、蛇のような鋭い黄金眼。
体が赤黒く燃えるトカゲの悪魔は、たしか待合室の入り口にいた見張り役だ。
「ルキフェルト様も物好きだなぁ。てめぇの魂は悪魔がもっとも嫌う部類だってぇのに、わざわざ契約したんだから」
無言で睨みつけると、赤いトカゲは3本指を器用に使って書類の束をめくりはじめた。
「メイド仲間に告発されて火刑、ねぇ。どうだった? 生きながら炎に焼かれる感触は」
無視。
「悪魔の力を借りても、結局長生きできねぇで終わっちまったのかぁ」
無視。
「魔女の濡れ衣を着せられた上に、地獄へ落ちた感想を教えてくれよぉ」
無――耳障りな金切り声に、苛立ちが募る。
「うるさい」と喉元まで出かけた、その時。
妙なところで、お喋りトカゲの声が途切れた。
「職務中の無駄口は感心しないなぁ、サラマンダー」
この声は――。
「る、ルキフェルト様! いつの間に……」
「これ以上口を開いたら、うっかり君を四つ折りにしちゃうかもね」
耳の奥に残る悪魔の低音に続き、ミシミシと何かが軋む音がした。
「むぐぐんんん……!」
鉄格子のドアが、激しい音ともに開く。
格子に燃え移る炎――トカゲの体がドアに叩きつけられていた。
「それとも八つ折り? どこまで折れるか試してみようか」
「そ、そんなこどじたら、オレらの『業火』が、黙っちゃいねぇ……っ」
炎が消えたトカゲは書類の束を撒き散らし、壁に溶けるように消えていった。
「さて」
まずい――。
ゾクっと背筋を這い上がるのは、上級悪魔と接触した時の戦慄。現世で会った時とは比べ物にならない緊張感をまとい、高く響く踵の音が近づいてくる。
「退魔師アン・セージの孫娘ローズマリー」
そう。自分は悪魔と戦ってきた、誇り高き祖母の孫――毅然とした態度で視線を上げると。
宙を舞う書類を回収する悪魔の靴先が、目の前で止まった。
「享年18歳、生前は王宮メイド、異端審問のすえ火刑により死亡……うん、僕の契約者で間違いない。遅くなってごめんね、ロミ」
書面から顔を上げたのは、にっこり微笑む黒髪の青年。
ネコ耳の代わりに悪魔の角、牙の代わりに鋭い八重歯。
「……だれ?」
「君ねぇ、まさか契約者の顔を忘れ――あぁ、そうか」
すると病的な影を帯びた青年の顔が一変、見慣れたネコ頭になった。
仕組みは分からないが、この男は瞬きの間に、自分の契約した悪魔の姿になったのだ。
「ネコは現世用さ。こっちの方がお好みなら、君の前ではネコ頭でいようか?」
考えの読めない金と銀の瞳、艶のある黒毛――でも、ひとつ腑に落ちないことがある。
「アンタ、本当に私が契約したルキフェルト? そんなにお喋りだった……?」
すると悪魔は再び青年の姿になって、心底楽しそうな笑い声を上げた。
「現世では自由に話せなかったんだけど、ロミと契約したルキフェルトで間違いないよ。何なら君の親友にして仇敵の名を口にしようか?」
それは冗談にならない茶化しだ、と煽り顔を睨みつけると。
「続きは後でいいかな。ここ空気悪いし、僕たちの屋敷に帰ろう」
「僕たちの?」
些細な引っかかりに答える代わりに、【愛欲の悪魔】ルキフェルトは、こちらへ手を差し伸べた。
「どうしたの? そういう約束だったでしょ」
この手を取れば、もう後戻りはできない。
「契約印があるのはどっちの手だったかな?」
黒い皮膜のような手袋に包まれた、広い手のひら。その裏側には、この左手に刻まれたものと同じ、忌々しい印があるはずだ。
「ほら、早く」
「分かってる! もう覚悟、決めてるから」
左手の指先で、冷たい手に触れた瞬間。
抗えない力で腕を引き寄せられ、スーツ越しの胸板に頬をぶつけた。
「見た目通り脆そうな体だねぇ。壊さないように気をつけないと」
見た目より硬い体を押し除け、「痛い」と顔を上げたところ。骨が鳴るほどに握られた手の甲に、氷のような唇が触れた。
その隙間からこぼれる白い吐息が肌を滑る。
瞬間、互いの手の甲に焼き付いた契約印が入れ替わる――私の手にある『主』の印が悪魔へ、悪魔の『従』の印が私へ。
「あぁ、ようやく僕のものだ」
先ほどまでの軽い調子とは一転。悪魔は低く抑揚のない声で呟いた。
私の瞳に映る自分を確認するように、ゾッとするほど整った顔を寄せて。
「……これからお世話になります、ご主人様」
たった一度。生前悪魔の力を使ったがために、これから永遠に魂を縛られる。
薄っぺらい笑顔が張り付いた悪魔を主人に迎え、終わりない苦痛を与えられる生活――死活がはじまるのだ。
「これから永遠に大切にするからね」
そう。これから永遠に大切に――。
「ん?」
長い待ちぼうけで耳が遠くなったのか。聞き返そうと、暗い星のような瞳を見上げた、その時。
「『愛してる』よ、ローズマリー」
愛――あい?
艶を帯びた低音が頭の中を回転する間に、悪魔特有の「この世ならざる者」というべき美貌が近づいてきた。
悪魔どころか、他人とここまで近づいたことはない。
止まっているはずの心臓が大きく跳ね、不意の接触を避けることができなかった――つまりは唇と唇が重なるのを許してしまった。
「……はぁ?」
「ふはっ! ファースト・キスでキレるとか君らしいなぁロミ。それとも照れてる?」
分からない。
ネコ頭だった時の9割増でよく喋り、よく笑うこの男が何を考えているのか――。
ただひとつ確かなことは、悪魔が口にする『愛』はすべて嘘だということだ。