九話 朝餉
翌日、早朝。優斎は菊花に叩き起こされた。まだ外は薄暗く、朝を告げる鳥たちの声も聞こえない。隣に敷かれていたはずの布団に、すでに伊織の姿はなかった。
昨日に出かけるとは聞いていたが、よもやまだ日が上がりきらない時刻から留守にするとはいったい何用というのだろうか。昨日のこともあるし、伊織こそしっかり休養をとってもらいたいと優斎は思う。
優斎はまだ覚めない頭を菊花に撫でられるが、眠気のほうが勝ってしまって抵抗できてない。
「起きてー! 朝だよー!」
「まだ……暗い」
なんとか菊花の手を払い、布団を深く被る。しかし、菊花は容赦なく布団を剥ぎ取って二度寝を許してはくれなかった。
「わか、た。起きる……から」
「瞼重いよー」
言葉のみで一向に開く様子のない優斎の瞼に菊花は不満を漏らした。
「まさか、こんな早朝から西都に向かうつもり?」
「そのまさか! と言いたいところだけどー、残念! 裏の畑の手伝いをするんだよ。ここへ来たときはいつもしてるの。すごいんだよ? 収穫した野菜が朝餉になっちゃうの!」
毎回ずかずかと入り込んでただ宿を借りているというわけではないらしい。奔放な菊花のわりにちゃんと考えているようだ。納得のいく理由を明示され、優斎もふらつきながらではあるが体を起こした。
「よーし、それじゃあ行こう!」
「せめて着替えさせて……」
昨晩はなにもなかったはずの枕元に貫頭衣が置かれているあたり、伊織もまた抜け目がない。大きなあくびを落としながら優斎は寝惚け眼に貫頭衣へ腕を通した。
裏の畑には野菜だけでなく花が咲く畑もある。元々は野菜だけの畑だったのだが、春様が野菜に混交させて花を植えてしまったらしい。そして春様自らが植えたものだから栄養はその花に吸われ、本命の野菜が全くと言っていいほど育たなかったという。
そのため伊織は野菜と花の畑をわけ、屋敷の食糧が不作となることを防いだとかなんとか。春様の威厳のためにと詳しい話を伊織は教えてくれなかったのだが、大体の顛末は想像できるので優斎も追及はしなかった。
「疲れたー!」
籠いっぱいに野菜や芋を盛った菊花が、とても疲れているとは思えない声を出した。籠を頭の上に掲げて伸びもしている。そのまま重みで後ろにひっくり返ってしまわないかと優斎はひやひやとしたが、それなりに体幹はしっかりしているようで杞憂だった。
「優斎はずっと花を愛でてたよね。そんなに花好きだったっけ?」
「春様がたくさん教えてくれたからね。正直、名前とかは覚えきれてないけど、世話の仕方は覚えたよ。伊織も教えてくれるから」
「ふーん。あ、私これ家政婦に渡してくるから優斎は朝湯に行ってきなよ。そしたら入道様も呼んで、朝餉ね!」
菊花は籠を抱えながら廊下の奥に消えていった。優斎は戸惑いながらも風呂場に向かい、べたべたと体にまとわりつく汗を流した。
風呂場から出るといつの間にか菊花も朝湯を終えていて、途中で入道と合流して客間へ戻る。座卓には人数分の朝餉が用意されていて、この短時間で用意してくれたことに優斎は呆けてしまった。
「さ、食べよ食べよ!」
手を合わせてから次々に口へ放り込み、頬を膨らませる菊花に続いて優斎も箸を口へ運んだ。何度も東都へ来ることはあったが、思えば一晩を過ごし、食事をともにすることは一度もなかった。それは菊花と時丸とも同じであるが。
こうして人間とまともな食卓を囲むことは、おおよそ一年ぶりくらいだ。お師匠が亡くなってから、初めてのことだった。
「優斎、なんか顔暗くない? 気分悪い? 畑仕事で疲れちゃった?」
「ううん、そんなことないよ。心配してくれてありがとう。俺は大丈夫だよ」
「心配することにお礼なんていらないんだよー、友達なんだから!」
天真爛漫な菊花の笑顔に、少しだけ心が軽くなったような気がする。優斎はほどよい焦げ目がついた魚を食み、頬を綻ばせた。
「うんうん。優斎はそうやって笑ってたほうがいいよー。ね、入道様」
「馬鹿に見えるからやめたほうがいいだろうな」
「せっかく菊花が気を回してくれたのにそういうこと言うかな!?」
「ほら、すぐ声を荒げるだろ。馬鹿が垣間見えた」
すんと澄ました入道を、今にも掴みかかりそうな勢いで睨む優斎。そんな争いの元凶である菊花は何事もないように皿を空にして手を合わせていた。
それから数時間後、屋敷の前に一台の牛車が到着した。優斎はここへ来るときは毎回、伊織から迎えがよこされていたため、菊花の迎え用の牛車に同乗することになる。
牛を落ち着かせていた御者が菊花を視界に入れるなり顔色を変えたのを、優斎は見逃さなかった。しかも牛よりも自分が落ち着かない様子で、なにかを言いたげにそわそわと菊花を見ている。
「なにかあったんですか?」
菊花は特に気にすることなく牛車に乗ってしまったため、代わりに優斎が声をかけた。びくりと肩の跳ねた御者だったが、
「い、いえ! 王都を通ってまっすぐお屋敷へ向かいますので」
御者は俯きがちに首を振り、不安げに見上げていた優斎の顔色を窺っているようだった。
「道中揺れますので、気分が悪くなりましたら声をかけてください」
「はい、わかりました。よろしくお願いします」
少し納得のいかない返答だったが、菊花が窓を軽く叩きながら優斎を呼んでいたので早々に会話を切り上げた。
「なにを話してたの?」
「ううん。なんでもないよ」
牛車に揺られながら、優斎は菊花の肌を注意深く確認していた。
「あーあ、伊織にもあの子のこと見てほしかったなー」
昨日と少しでも変わったところは、傷が増えたところはないか。まじまじと視線を注ぐのも失礼な話だが、話に熱中している菊花には優斎の目線など知ったことではないだろう。
話の盛り上がりで動かされる腕を目で追うのは少し骨が折れたが、露出している肌に傷は増えていないようで優斎はひとまずほっと息をついた。
「優斎どうかしたの? さっきからなんか変だよ。私の話ちゃんと聞いてなかったでしょ!」
「えっと、昨日言ってた傷が増えてないか見てたんだよ。ちょっと不躾だったかな……気分を害してしまったならごめん」
「なんだそんなこと? それなら大丈夫だよ! ここ最近は傷が増えてないからね」
「あ、え……そうだったんだ」
おどおどとした態度の優斎にけろりとしている菊花。
「あー、でも最近は私よりも家政婦たちのほうが多いかなー」
「え!?」
優斎は口をあんぐりと開けて驚いた。前のめりになった優斎を不思議そうに見返した菊花はきょとんとしている。
「菊花だけじゃ、ないの?」
「なにが?」
「不思議な傷がついた人だよ!」
声を荒げた優斎をじっと見つめながらぽかんとしていた菊花が、「ああ!」と笑顔になって頷いた。
「うん、私だけじゃないよ。昨日帰ってきた父上もそうだったかな? 家政婦たちも何人かついてたから、父上はそれを不気味がっているのかも。呪いだとかなんとか怒鳴ってた気がする」
「昨日帰ってきて、その日のうちに傷が?」
「そうだよ」
「そう。それは、災難だったね」
優斎は菊花の返答に閉口した。菊花のことだから外で遊んでいるうちに怪我したことに気づかなかったとか、可能性は低いながらも自らを傷つけてしまっているとか、そんな風に楽観的な憶測していた。
けれど他の人間も不思議な現象に見舞われているとなれば、話は違ってくる。痛みを伴わない傷などないのだ。
「ねえ、菊花。もしかしてその動物って」
「あ! そろそろ着くんじゃない?」
優斎と菊花の声が被り、
「なんか言った?」
「いや、なんでもないよ」
「そっか! ねえほら優斎も見て! 今日は風が強いから紅葉が舞ってるよ」
灰色の瞳をきらきらとさせた菊花が優斎に窓の外を確認するように促した。
菊花の住む屋敷は赤や橙の絵具を垂らしたような紅葉の木々に囲まれ、風が吹くたびに舞い上げられた落ち葉が幻想的な風景を映し出している。
鮮やかに咲き誇る花々に彩られた東都とはまた違う趣がここにあった。