七話 餓者髑髏
事の顛末はこうだ。
春根とその娘の彩羽は王都から帰る際、綺麗な花畑の傍を通りがかったらしい。彩羽がその花畑を「もっと近くで見たい」と駄々をこねたため、春根は牛車を止めさせた。最初は眺めていただけだった彩羽がやがて花畑の中に足を進め、春根もそれを止めずに黙って見ていたそうだ。彩羽の手には一輪、また一輪と紫色の花が増えていき、春根はそれを黙認し続けた。
規則などあってないようなもの。罰など当たるわけがない。常々そう思っていたのだ。
だが唐突に、微笑ましい場を切り裂くように彩羽の悲鳴が響き渡ったという。
「そ、それからは……助けを求めるべく、伊織の元へ!」
「逃げたんですね。家族置いて」
「なんだと!?」
激高して優斎に掴みかかろうとした春根に入道が声をかける。
「いいのか? 不安定な場に立って」
その直後、牛車は石に乗り上げたかのように大きく揺れた。支えのない春根が床に頭を打ちつけながら倒れる。
「春根殿!」
「菊花、大丈夫?」
「うん。ちょっとだけお尻が浮いたけど、優斎が支えてくれたから大丈夫! それよりも優斎、がしゃどくろ? ってどんな妖なの?」
「その話は牛車を下りてからだ。花畑に着いた」
入道の言葉とともに牛車が止まる。さっさと外に出る入道に優斎と菊花があとを追い、伊織と頭をさすっていた春根も続いた。
「紫色の花がたくさーん! 優斎、これなんていう花?」
「これは竜胆っていう花だよ。本来は群生しないんだけど、春様が餓者髑髏のためにたくさん植えてあげたんだって。お師匠が言ってた」
「餓者髑髏は人間を食らう妖であったが、優頼と春の神の情によって殺さずここで眠らせていた」
花畑に入らないよう、ぎりぎりに立って遠くまで見ようとする菊花と優斎。その間に入道が立ち、
「愚者によってその眠りを妨げられたようだがな」
低い声でそう言った。わかりやすく怒気が孕んでいた。
「な、なにをしている! 早く娘を助けに行かんか!」
「お前ごときが、小生に指図するのか?」
「あー! 入道! 早く、早く助けに行こう! 餓者髑髏のために!」
完全に矛先を春根へと向けた入道の気を引き、優斎は花畑に足を踏み入れる。腰が引けているのに威勢だけはいい春根を一瞥し、入道が鼻を鳴らした。
「伊織たちはそこで待っていて!」
なにかを言わんとする入道を遮り、優斎が叫ぶ。
「はい、わかりました。彩羽をよろしくお願いします」
春根の代わりだろう。伊織が深々と頭を下げた。
「秋の子が言うようにあんな人間、助ける必要などない」
「俺たちは今から令嬢と餓者髑髏を助けに行くんだ。もし餓者髑髏がすでに令嬢を食べてしまっていたら……想像したくないな」
「もし食っていたとして、お前は餓者髑髏を誅殺するか?」
誅殺とは、罪のある者を、その罪を理由として殺すことだ。人間に害をなした妖や信仰を失い我の忘れた堕神を祓うという意味で優斎たちが使っている言葉である。
実際に手を下すのは入道だが、命じるのは契約者である陰陽師だ。優斎の一言で妖や堕神の命はいとも簡単に失われる。
「しない、かな」
「なぜだ?」
「そもそも悪いのは春根様たちだし、なによりお師匠は誅殺せず、眠らせたんでしょ? だったら俺もそうする」
入道がなにか言いたげな顔をする。
それを優斎が見るよりも前に、辺りに強い風が吹いていたことに気づく。歩みを進めれば風は勢いを増し、優斎は嵐の中を歩くように顔を腕で守った。
一歩に体重をかけて踏ん張りながら進む。ゆっくりとした足取りではあるが、確実に前へ進んでいた。
「わっ!」
そうして、全身に力を入れていたからだ。急に風が止み、優斎は前のめりになって地面へ倒れ込んだ。体を起こし、何事かと周りを見回す。
「――あ」
竜胆だけでなく、鮮やかな花々に囲まれた春様がそこにいた。
上半身から足首までひらひらとした単一の衣服をまとう美人。さらには頭に被っている薄い布は地面にまで垂れる長さで、その立ち振る舞いだけで儚げな雰囲気を漂わせていた。
そして、高く掲げられた春様の両手からはらはらと花が落ちる。その落ちた先、地面には少女が仰向けになっていた。眠っているようだ。
「春様」
慌てて跪いた優斎に、振り返った春様が微笑みかける。
「会いたかったです」
鈴を転がすような声に優斎は顔を上げた。色とりどりの花で編まれた冠が優斎の頭に乗せられる。
「四季の神も遠慮なさらず」
「いらん。こんなもの、優斎に着けるな。それより小生たちはその人間を迎えに来たのだ」
春様手製の花冠を断り、優斎の頭に乗っていた花冠まで投げ捨て、入道は横たわる少女――彩羽を指さした。
「優斎はどれがいいと思いますか?」
春様は彩羽に目をやったが、すぐに顔を逸らす。恐らく無視された。
「どれ、とは」
内心、気が気ではないが、優斎は春様の手の中にある何種類かの種を眺めた。そこで、伊織が「春様が新しく花畑を作る」と言っていたことを思い出す。
「これが、いいと思います」
優斎はどれがどんな花を咲かせるのか見当もつかないため、適当な種を選んだ。
「わたくしもそう思っておりました」
春様が口元に薄っすら笑みを乗せる。優斎はほっと息をついた。
春様も優斎に種を選んでもらい、満足したのだろう。ようやく彩羽に関して触れてくれた。
「可哀そうなことをしました」
「……頭に、傷が」
餓者髑髏に噛まれた傷だ。痕が残ってしまうかもしれない。優斎は医者ではないから診断のしようがないが、かなり深い傷だということはわかる。
ただ、流れて広がった血の中から芽が出ている光景を優斎は見なかったことにした。いくら春様が優斎に温容とて、聞いてはいけないことだと弁える。
春様は神様だ。人間の常識に当てはめてはならない。優斎はそう自分に言い聞かせた。
「彩羽様のことは」
「わたくしの花は無造作に摘まれ、餓者髑髏は安眠まで妨げられてしまいました。ああ、餓者髑髏には可哀そうなことをしました」
優斎はふっと口を閉じ、それ以上の言葉を紡ぐのをやめた。もし、あれよりも先を声に出していたら自分も今、どうなっていたかわからない。
彩羽の傷を案じるより、春様に手を下されていないだけましだと思うべきだ。優斎は深呼吸し、思考を切り替える。
「餓者髑髏はどこにいるでしょうか?」
「こちらです」
置いていかれる彩羽をちらりと見やり、優斎は胸中で謝りながらその場を離れた。
花の上を歩いているはずなのに、足を上げれば花々は何事もなかったかのように背を伸ばしている。花弁が散ることも茎が折れることもない。きっと春様の力なのだろうと優斎は結論づける。
「優斎!」
行きの風が嘘のようにすんなりと、優斎たちは牛車を下りた付近へ戻ってきたようだ。相変わらず花畑に入らないようにぎりぎりのところで菊花が手を振っている。
「む、娘はどこだ!?」
春様が立ち止まった。その瞬間、突如として視界に現れたそれに優斎は目を見開く。
先程まで、なにもなかったはずだ。なにもいなかったはずだ。けれどたしかに、花畑に掘られた穴に朽ちた着物を着た骸骨が座っていた。
人が横になれるくらいの広さと程よい深さ。そこで物言わぬ骸が足の骨を伸ばした状態で優斎を見上げている。
「ひっ、ば、化け物!」
「静かに」
腰を抜かした春根に優斎は間髪入れず黙らせた。妖と神様がいる前でそのようなことを平気でのたまう武士には、怒りを通り越して呆れてしまう。
「怪我をして意識はないけど、花畑のどこかに彩羽様はいる。伊織、迎えに行ってあげて。歩けばきっと春様が導いてくれるから」
了承する伊織を見送り、優斎は餓者髑髏の傍らにしゃがんだ。
「俺は優斎。優頼の弟子だと言えば、わかってもらえるかな」
肉がないから表情もわからない。優斎はとりあえず餓者髑髏からの反応を待った。
「もう弟子ではないだろう」
優斎を横目に入道がため息をつき、優斎は「いつまでも弟子には変わりない」と否定しようとした。が、餓者髑髏の口が動いたのを視界の端に入れた優斎は、引き寄せられるように顔を戻す。
「くっ!?」
瞬きの間に、口を大きく開けた餓者髑髏の頭が眼前に迫ってきていた。咄嗟に前へ出した手は餓者髑髏の肩を押さえたが、餓者髑髏もまた優斎の頭を掴んでいる。
みしみしと骨が軋む音を耳にしながら、優斎はひっくり返った。
「優斎、優斎!」
遠くで菊花が叫んでいるのが聞こえるが、それに答えるほど余裕はない。骨だけだというのに、どこにこんな力があるのか。
この前の二の舞だ、と優斎は目の奥が熱くなった。
「っ……入道!」
声を上げたのと同時に、がり、と額に鋭い痛みが走った。
強さの増す締めつけられる骨の痛みと噛みつかれた痛みに意識が飛びそうになりながら、「ああ、この前もこんなことあったな」と優斎は考える。
「……餓者髑髏をっ、眠らせて!」
「早くそれを言え」
ぐらつく視界に入道が映り込む。
「それ以上は、見過ごしてはやらない。眠れ」
抵抗空しく曲がっていた優斎の肘が、ばっとまっすぐになる。
「はっ、は、はあ……はあっ」
餓者髑髏の四肢がだらりとし、歯からはぽたぽたと優斎の血が垂れ落ちた。動かなくなったそれは、ただの骸に等しい。