六話 花畑
「伊織! 伊織はいないか!」
のほほんとした空気を取り戻していた客間に、使用人の制止を振り切った男が騒々しくやってきた。
入道の髪を梳く菊花とそれを眺めていた優斎、羊皮紙と向き合っていた伊織の視線が同時に向く。
黒色の着物を着用する武士だ。齢は三十を越えるくらいだろうか。家紋をつけた装いをしているため上位の武士には違いない。
そんな男は酷く取り乱し、緊迫した面持ちで客間へずかずかと入り込んだ。そして伊織の前まで来て唾を飛ばした。
「娘を助けろ! 今すぐにだ!」
「なにあの人!」
「秋の子よ。そう強く引っ張るな」
「き、菊花」
怒りから思わず手に力が入った菊花に入道が顔をしかめた。優斎は傍で痛くないのかとはらはらしている。
「すみません! すみません!」
「大丈夫ですから、あなたは戻ってください」
男を止められず、何度も謝罪を口にする使用人を伊織が下げさせる。そうして男と向き合い、まず距離をとるように諭した。
「春根殿。なにをそんなに慌てているんですか。客人の前でもありますので」
「御託はいい! 早く牛車を出せ!」
春根と呼ばれた男は鼻息を荒くし、目を血走らせている。その尋常ではない様子に、威勢よく糾弾していた菊花は優斎の後ろへと身を引いていた。
聞く耳を持たない春根に伊織は少しだけ思案し、優斎たちの顔を見た。
「わかりました。牛車を用意させましょう。菊花、彼は春根祥吉といって僕の叔父にあたる方です。だからそう怖がらなくて大丈夫ですよ。なるべく早く帰るようにしますので、優斎と入道様は菊花とともにここでお待ちください」
「……優斎?」
充血した目が優斎を捉える。その剣幕にびくりと体を硬直させた優斎は声を出すことができず、目の前までやってくる春根をただ見ていることしかできなかった。
「お前が、そうか! 陰陽師の!」
ははは、と大きく笑った春根が次の瞬間、優斎の胸ぐらを掴んで自分のほうへと引き寄せた。
「う!?」
「お前も来い」
「春根殿!」
やめさせるべく、優斎と春根の間に伊織が割って入る。
が、そのとき。その場にいた全員が東都では体感するはずのない寒気を感じ、総毛立った。
「――鳥でも囀っているのか?」
優斎の背後で、入道が春根を見下ろしていた。その威圧的な存在に春根がたじろぎ、優斎は恐る恐る振り返った。
「なんだ?」
「いや、なんでも」
優斎はさっと顔を逸らす。いつもと変わらないふてぶてしい態度のはずなのに、優斎まで心臓が縮んだ気がした。
「……春根殿、優斎を連れていく道理がありません」
「だから、娘が化け物に襲われたのだ!」
「化け物って、妖のこと……?」
菊花の呟きに、伊織と優斎の顔が険しくなる。
「詳しい話は牛車で聞きましょう。優斎と入道様、力をお貸しいただけますか」
「妖が絡んでいるのなら、だめだと言われても俺はついていくよ」
伊織は頷き、菊花には屋敷へ留まるように告げる。不満を垂らす菊花を残し、伊織は牛車を手配させるために御者の元へ向かっていった。
「春根様。令嬢を襲ったという妖は、どのような妖でしたか?」
「ふん」
詳細を尋ねようとした優斎に、春根は鼻を鳴らして蔑むような視線を浴びせる。そして偉そうな態度を貫いたまま、どすどすとわざと音を立てて玄関のほうへ姿を消した。
「あんな人、助ける必要ないよ」
「でも、令嬢は違うかもしれないでしょ?」
口を尖らせる菊花をなだめ、優斎は入道を連れて春根を追った。
しかし、先回りした菊花が玄関前で優斎と入道、合流した伊織の行く手を阻んだ。
「どうして私は行っちゃだめなの?」
頬を膨らまし、子供のように不満を露わにしていた。
「遊びじゃないんだ。危険な場所へ行くから菊花は連れていけないよ」
「私も行きたい!」
「菊花」
駄々をこねる菊花を名前だけで制す伊織。菊花は「うー」と口をぎざぎざさせ、今度は優斎に「邪魔しないから」と頼んだ。
「仲間外れにしないで」
菊花は悲しそうに眉尻を下げる。
「時間が惜しいから、もう菊花も連れていこう。いいよね? 伊織」
「わかりました。仕方がありませんね」
「ありがとう! 優斎!」
同情を盾に言いくるめられた気がしなくもないが、今は悩む時間も惜しい。
そしてすぐ、御者に行き先を告げていた春根とともに牛車に乗り込み、詳しい話を聞くことになった。
「僕たちは今、どこへ向かっているんですか?」
沈黙が流れる。入道を除いた全員からの注目を集め、春根は渋々といった様子で重たい口を開いた。
「到着すればわかる」
「はい?」
伊織の問いかけに春根は鬱陶しそうに舌打ちし、腕を組んでふんぞり返った。
「王都から帰る途中に妖と出くわしたから、正確な場所はわからん」
「そうですか。では、出くわしたのはどのような妖でしたか?」
「醜くおぞましく、骸のようだった」
忌々しげに春根がまた舌打ちをする。
「優斎。心当たりは」
「花畑には入っていませんよね?」
伊織の言葉を遮り、優斎がじっと春根を見つめた。
「まさか。東都では花畑に立ち入ることは禁忌とされています。東都へ入る際には検問員からその旨が必ず伝えられますし、よもや東都の人間が花畑に入るなど愚かなまねはしませんよ」
伊織がやんわり否定するが、春根は口を噤んだままだ。
「私知ってるよ! 東都にある花畑はほとんど春様が作ってるから、入っちゃいけないんでしょ? あれ……入ったらどうなるの?」
「菊花、もしかして入ったんですか?」
伊織が訝しげに菊花へ問う。
「ううん。心配しなくてもそんなばかなことしないよー。必ず検問所で言われるんだから、幼子だって入らないよ」
「花畑に入れば春様の怒りを買うことになります。誰だって、手塩にかけて育てたものを壊されるのは許せないでしょう?」
春様が人間たちに鉄槌を下せば、東都全体に風が吹き荒び、大地は干からび、生命の全てが枯れ果てることになる。
これらは規則を守らせるために作られた寓話などではなく、過去に何度か起きた事件の話だ。
「だから花畑に立ち入ってはいけないのです。春様から許しを得ている人間は別ですが」
「うん。許可されているのは俺と伊織だけだね。それで春根様、花畑に入ってはいませんよね?」
「俺は入っていない」
「俺は?」
限定された物言いに菊花が首を傾げる。
「となると、彩羽が花畑に入ったのですね? それで春様の怒りを買ったと」
「あ、ああ」
「本当に春様の怒りを買ったんですか?」
歯切れの悪い春根に、優斎が質問を重ねる。そんな優斎の射貫くような視線に春根が「ぐ」と尻込みする。
「優斎、なにが言いたいんですか?」
心なしか、伊織は春根の肩を持っているような気がする。伊織からすれば双方を対等としているのかもしれないが、これまでの武士からの扱いを考えると優斎は少しだけ辛くなった。
春根へ助け舟を出そうとした伊織にも、優斎の鋭い瞳が向く。
「春根様は骸のような妖と言ったよね。俺が思いつく妖は餓者髑髏しかいないんだ。だから執拗に花畑へ入ったか聞いたんだよ」