四話 傷
「優斎に入道様、よく来てくれました。父上は不在ですので安心してくださいね」
朗らかな笑みで優斎と入道を出迎えてくれたのは東都を治める領主の跡継ぎ、吹春伊織だ。
肩の高さで束ねられた青い髪、深海を閉じ込めたような瞳。木賊色の着物をきっかりと着こなしているが、物腰は柔らかい。彼の持つ穏やかさによって、いくら大人びた格好をしようとも硬さは取り払われている。
兄のように慕う伊織の後ろを歩き、客間へと通されるこの廊下を歩くことが優斎にとって密かな楽しみだった。彩りに満ちた庭は、春の気候を持つ東都でしか見られない光景だ。
「今日は、春様はいないみたいだね」
春様というのは東都の土地神様の通称である。
真名を呼ぶことが許されるのは契約者や神様自身が許した相手、同等以上の神様と限られている。その存在はやんごとなき御方と同等に扱われることがほとんどだ。
「春様がいらっしゃるのなら、一緒にお茶ができればと思っていたのですが。残念ですね」
通された畳の客間には、すでに茶が用意されていた。微かに湯気が揺らめいていて、飲むにはちょうどいい温度だろう。
「けれど、春様が優斎に会いたがっていましたよ」
東都の土地神様は伊織に茎が結ばれた一輪の花を渡すことで、優斎に会いたいという合図としていた。ちなみに、春様のその日によって花の種類は変えられている。
「春様が? なにか困ったことでもあったの?」
優斎は顔を強張らせ、手にしていた湯飲みを座卓の上に戻した。
「いえ、そうではなく……新しく花畑を作りたいそうなんですが、優斎に植える花を選んでほしいそうです」
「なんだ、そういうことか。でも俺は花に詳しくないよ。伊織が選んであげたら?」
「僕はもう選びましたよ。そして優斎にも選んでほしいと」
楽しげに種を選んでいた春様を思い出し、伊織が幸せそうに笑った。
「近々、東都では雨が続くだろう。春の神にも植える時期を間違えるなと伝えておけ」
「はい、入道様。ご教示感謝いたします」
優斎は外の景色に目をやり、雲一つない空を見上げる。天気の移り変わりなど到底予想できるとは思えず、優斎は微妙な顔をした。
すまし顔でとうに冷たくなった茶をすすっていた入道が、ふいにちらりと目だけを廊下に向ける。瞬きののちには、また対面に座る伊織に視線を戻していた。
「いーおーりー!」
その直後にばたばたと足音が近づいてきて、客間に一人の少女が飛び込んできた。人目をはばからず憤慨しているのは西都を治める領主の跡継ぎ、秋谷菊花だ。
「菊花!?」
三つ編みになって腰まで流れる白い髪、銀世界を映したような灰色の瞳が優斎へ向く。
桃色の簡素な着物を身にまとう愛らしい少女。けれどそんな様相の中にもたしかな大人らしさを思わせるのは彼女の魅力の一つだろう。
座卓を叩きつけるように手をついた菊花は首を傾げ、
「あれ? お客様って優斎と入道様だったの? まあいいや、聞いてよ! 父上ってば酷いんだから!」
「落ち着きなさい、菊花。入道様の前で無礼ですよ。菊花と約束していた覚えはないと記憶していますが」
驚きを隠せない優斎と少しだけ怒っているような伊織。それを上回る熱量で不機嫌を露わにしていた菊花だったが、伊織にたしなめられたことで冷静さを取り戻したようだ。
座卓に収まる人数の、ちょうど最後の一席である伊織の隣に菊花は腰を下ろす。のほほんとした茶会から一転、とげとげした空間と化してしまった。
「今日泊めてよ、伊織」
「いきなりなにを言い出すかと思えば。いったいなにが……その顔の傷、どうしたんですか?」
伊織が怪訝な顔をして菊花の頬を指摘する。菊花の頬には斜めに大きく切られたような傷が入っていた。血が出ている様子もなく、かといって古い傷でもない。現に戴冠式のときにはなかったはずだ。
まるで人形の肌を切ったような傷に、みなが注目した。
「んー、これ? 手にもあるよ。気づいたらあった」
へらっと笑った菊花は切り傷に対して特に気にしていないようだ。だが伊織はそれを許容できなかった。
「誰にやられたんですか? 隠さないでください。もしかして立場上、名を出せないような人物でしょうか? 僕はもう宮廷でそれなりの立場を確立できているので心配いりません。誰であろうと」
「待って待って! 違うよ、ほんとに違うから! 不思議なんだけど、気づいたらあったんだよー。伊織や時丸と違って武士じゃないのにね」
胸の前で握り拳を作り、無事なことを伝える菊花は本当に嘘をついていないようだった。怯えている様子も誰かを庇っている様子もない。
「優斎もなにか言ってよ! 伊織ったら心配しすぎなんだよ。だよね?」
菊花が優斎に助け船を求める。
「まあ、伊織が俺たちに過保護すぎると思うときはあるけど……俺も気にはなるよ。誰に、っていうよりどうやって? って疑問のほうが強いけどね」
「ほら、優斎もこう言っています。嫁入り前の娘に……それも顔に傷がつくなんてとても腹立たしいです」
伊織の目が苛立たしげに細くなり、菊花は苦笑いを返すことしかできなかった。