三話 及第点
「どこへ出かけるのだ?」
屋敷の前に待機している牛車を怪訝に眺めた入道は、近くにいるであろう優斎を目で探す。すると牛車を挟んだ向こう側から声だけが届いた。
「海だよ。妖たちが騒いでるって助けを求めてる」
ひょこっと姿を現した優斎は幼子と手を繋ぎ、なだめるように笑いかけていた。幼子は優斎の手から逃れると、肩よりも上に腕を伸ばした。
「それはちょっと……」
抱っこをせがむ幼子は踵を上げ、さらに背伸びをする。
「仮にも神が人間にせがむな」
入道にじとっと睨まれた幼子の動きがぴたりと止まり、じわりと瞳に涙が浮かんだ。
「神様とはいえまだ子供なんだ。そんな言い方しないでよ。気にしないでくださいね……乙姫様」
優斎は一瞬、以前教えてくれた真名で呼ぶべきかどうか迷ったが入道の手前、通称の名で呼んだ。
このまま大泣きされても、乙姫様の親であり四季之国の海を統べる水神様の反感を買いかねない。だから優斎はその小さな体を優しく抱きかかえた。
「それじゃあ、俺は海に行ってくるから入道は」
「小生も行こう」
「えっ」
驚く優斎をよそに入道は牛車へ乗り込んだ。乙姫様と入道の顔を交互に確認した優斎は戸惑いながらも牛車に続き、入道の対面に腰を下ろした。
腕を組み、どこか不貞腐れているような顔をして窓の外を見やる入道。意図的に入道へ顔を向けないようにして優斎の胸に顔をうずめる乙姫様。なんとも気まずい空気に優斎も口を開くことができない。
それから、どれほど揺られていただろうか。外を眺めることに飽きた入道が、優斎の上に座る乙姫様を凝視していた。
「ところで、乙姫様……妖はなぜ騒いでいるのでしょう?」
「え、と……その。磯女さんと人魚さんが……」
「またか。今度はなにをしたんですか?」
優斎は額に手を当て、ため息をついた。
「えっと、また人魚さんが磯女さんを岩と間違えて座っちゃって……それに怒った磯女さんが! ああっ、あの悲鳴を思い出しただけでも耳が……っ」
丸くなり、ぎゅっと耳を押さえた乙姫様がふるふると震える。
これまでにも磯女と人魚が喧嘩することは多々あった。それも人魚が磯女を岩と間違えて座ってしまうという事案が大半を占めている。
「住みわけも考えたほうがいいかな」
南都に定住しているのは人間よりも妖や神様のほうが多い。理由は簡単で、妖や神様は陰陽師としか意思疎通を図れないからだ。もちろん、他の領地に住んでいる妖たちもいるが。
数少ない人間はというと、ほとんどが浮浪者だ。金に追われ、家を追われた者たちが安寧を求めてやってくる。そんな人間たちもお師匠は受け入れ、食料を生産することを代価として住む場所を与えていた。
「ふむ。海が見えてきたな」
いつの間にかまた窓の外を眺めていた入道はやはり機嫌が悪そうだ。優斎は「なにをしてしまったか」と胃が痛くなったが、海へ近づくにつれて聞こえてくる悲鳴に意識を奪われた。
騒いでいるのは磯女だけだと思っていたのだが、耳を澄ましてみると悲鳴の数が想像していたよりも明らかに多い。
牛車が停車するなり、優斎は乙姫様を抱えたまま飛び出した。鋭い叫び声を発する磯女の足元で、人魚が一人倒れている。血相を変えて渦中に飛び込めば、助けを求めるように人魚たちが優斎を囲んだ。
阿鼻叫喚とはまさにこのことで、乙姫様を抱えていなかったら優斎は確実に耳を塞いで現実から目を背けていただろう。
「静かに!」
鶴の一言によって今までの騒ぎが嘘だったかのように静まり返る。ゆらりとこちらに顔を向けた磯女の髪先が赤く湿っていた。
「乙姫様は倒れている人魚の手当てを。磯女、話を聞かせてもらえるかな?」
優斎を囲っていた人魚たちがわらわらと乙姫様の後ろをついていく。倒れた仲間の手当てを手伝いにいったのだろう。
磯女は顔を手で覆い、しくしくと泣き始めた。だが、見かねた優斎が話を聞こうとすれば奇声を発し、まともに話を取り合おうとしてくれない。
「落ち着いて話をしよう。乙姫様から、人魚が君を岩と間違えて座ってしまったと聞いたんだけど、それは正しい?」
磯女は手で顔を覆ったまま頷いた。
「今まで喧嘩することはあれど、傷つけることはしなかったよね」
視線を移すと乙姫様が倒れた人魚を介抱しているのが窺えるのだが、手元はおぼつかず慌てふためいてしまっている。
「死なないでくださいっ」
「乙姫様、彼女を助けてください!」
「先程からなにをしているのだ。その人魚が今ここで命を落とすことはないのだから、口ではなく手を動かせ」
その隣で入道が呆れたように乙姫様を見下ろしていた。優斎はすぐにでもあちらにすっ飛んでいきたかったが、まずは口を閉ざす磯女をなんとかしなくてはならない。
「そうやって君が話してくれないのなら、客観的に見て人魚たちに味方せざるを得ないよ。向こうは怪我をしているんだから」
半ば諦め気味に磯女を諭そうとすると、
「優頼はそんなことしなかった!」
「う、わ!?」
突然、磯女が血相を変えて優斎に掴みかかった。支えきれず、そのまま腰を打ちつける。幸いだったのは足場が砂で、その衝撃を吸収してくれたことだ。
馬乗りになった磯女はぎりぎりと優斎の首を絞めつける。加えて、肌に這う髪の毛のくすぐったさはやがて痒さに変わり、痛みへと変化していく。
「ぐっ」
逃れようと必死にもがいても下は砂で、足が滑ってうまく力が入らない。
「お前、なにをしている?」
ふいに磯女の体が浮いた。否、持ち上げられていた。あ然とする磯女と激しく咳き込む優斎。
先に気を持ち直したのは磯女だ。咄嗟に叫び声を上げようとした磯女の口を、入道が乱暴に片手で塞いだ。
「そうきーきー鳴かれては敵わん。お前は結局なにがしたい。なにをしてほしい。それを明確に示してもらわねば困る」
冷たい瞳に恐れをなしたのか気迫に圧倒されたのか、はたまた両方か。磯女はこくこくと頭を振ることしかできていない。
入道はそれを鋭く一瞥したのち、磯女を解放した。
「あ、あの子たちが悪いのよ……何度言っても私に座るの! もう間違われるのはうんざりなのよ!」
磯女はわんわんと泣きながら、蛇のような下半身を抱き締めた。磯女の言いたいことはわからなくもない。何度注意しても同じことを繰り返されたら、誰だって痺れを切らしてしまうだろう。
「けど、だからといって傷つけていいわけじゃない」
優斎が磯女に乙姫様へ目を向けるように促す。乙姫様は謝罪を口にしながら泣いていて、それにつられた人魚たちの目にも涙が浮かんでいた。
「なにも磯女だけが悪いとは言っていないよ。人魚たちも、何度も同じことを繰り返しているのはわかっているでしょ?」
「だって、彼女の後ろ姿……岩にしか見えないんだもの」
一人の人魚が口を尖らせながら答える。
「それなら、次からは声をかけたらどうかな? 磯女がいないことを確認してから座るんだ。それでも改善されないようなら、今度は傷つけてしまう前に俺に相談してほしい。ここはそれで納得してくれる?」
磯女は優斎の提案を飲み、続いて人魚たちも頷いた。
「その、何度も座っちゃってごめんなさい。目を覚ましたら、この子にも謝りにいかせるから」
「私も、手を出して悪かったわ」
双方が謝り、優斎はほっと息をついた。
「あの、優斎様っ。ありがとうございました!」
「これが俺の仕事ですから。それに乙姫様ももう少し胸を張り、背筋を伸ばしたほうがよろしいかと。俺がいないときは、乙姫様がなんとかせねばなりませんので。しっかりと見ていてくださいね」
「はいっ」
元気に返事をした乙姫様に一礼し、優斎は牛車に戻る。すでに牛車に乗っていた入道は優斎を見もせずに、
「及第点だな」
と言った。機嫌の悪さはまだ静まっていないようだが、なにかがお気に召したのかいくらかはましになっていた。