二十話 戯れ
翌日、時丸を見送ったあと。優斎は屋敷からほど近い雪山を歩いていた。一人ではなく、もちろん入道と一緒だ。伊織と菊花は仲睦まじく留守番をしていることだろう。
「本当に会いに行くのか?」
「うん。呼んでる気がするんだ」
誰に、といえば北都の土地神様である。通称、冬様は屋敷の近くの山に住んでいるのだが、人を嫌い、馴れ合いを好まないため優斎も懐へ入り込むのには苦労した。
しかも人間側から接触を図るのは不可能だ。雪山という絶好の隠れ家を活かしてのらりくらりと避けられるため、例え冬様の居場所を知っていようがそこへ辿りつけることはない。無意識のうちに自ら遠ざけてしまうのだ。
逆に冬様が許しを出しているのなら話は早い。気の向くままにというわけではないが、自然と足が動くのだ。
「遅かったのう」
木々で囲われ、内に開ける小さな円状の雪原。その中心には雪で形成されているように、根から葉先まで真っ白な大樹がそびえたっている。
そして、その根元に純白の大きな狼がこちらを見ながら寝そべっていた。
「お久しぶりです。冬様」
優斎が胸に手を当てて跪く。
「うむ」
体長はおよそ七尺くらいだろうか。純白の長毛に覆われ、思わず手を伸ばしたくなるくらいに艶やかでふかふかな毛並みだ。
「相変わらず愛想のないやつじゃ」
「お前には言われたくない」
冬様に鋭い眼光を向けられた入道は目を細め、優斎の首根っこを掴んで無理やり立たせた。
「ぐえっ」
「早く要件を言え」
「わしは人の子と話すからお主は遊んでおれ」
苛立たしげに尻尾を揺らした冬様の号令に、入道の周りをどこからともなく現れた灰色の狼が囲んだ。一触即発かと身構えれば、存外、友好的な態度で入道の足に頭をこすりつけている。
まんざらでもない入道を横目に、優斎は冬様に近づいた。
「変わりはないか、人の子よ」
「はい、いずれも変わりありません」
よくも悪くも、変化はない。絶対的な統制力を持てたわけでもなく、周りの態度も相変わらずである。
可もなく不可もなく。でも、優斎はそれで十分だった。
「妖の様子はどうじゃ」
「時折、騒ぎを起こす妖がいますができるだけ対処しています。それと、お師匠の跡を継いでから今まで、堕神は現れておりません」
信仰が失われた神様の成れの果てを、俗に堕神と呼ぶ。陰陽師が妖や神様を統制する前、四季之国には堕神で溢れていたという。陰陽師が尊ぶことによって神様は矜持を保つことができ、信仰を得ることができているのだ。
「優頼の後釜はさぞ肩身が狭かろう」
「お師匠の弟子でなくとも人間たちが妖を恐れる限り、陰陽師も畏怖の対象となりましょう」
「都合よくお主を使う人間を恨めしくは思わぬか?」
優斎は迷うことなく、まっすぐな瞳で、
「今は俺しかいないのです。人間のためではなく、妖や神様のために陰陽師がいるのです。結果、それが人間の利になっているにすぎません」
「それは優頼の受け売りか?」
真剣だった優斎の表情が気恥ずかしさに少し崩れた。
「はい。みなにお師匠をなぞらなくてもいいと諭されようが、俺がそうしたいのです。お師匠がそうであったように、そしていつかこの言葉は、俺のものともなりましょう」
冬様はじっと優斎を見据え、やがて満足げに喉を鳴らした。
「して、近頃は人間たちが騒がしい。山への出入りも増え、人間を忌み嫌う妖たちが殺気立っておる。冬の子に伝えてはくれぬかの」
「山の出入り、ですか。登山や狩猟、もしくは鉱山への採掘などでしょうか」
「狩猟も増えたが、採掘が主じゃのう。しかし、食い扶持のために我が子らを狩る不届き者もおるようじゃ」
「まさか、彼らも?」
優斎は焦った顔で振り返った。入道と無邪気に戯れる狼たちが、揺らつく瞳に映る。
北都では、狼は神聖な動物とされ、野生の狼には一切の干渉を禁じられている。その理由は明白で、北都の土地神様は狼が神格化したものとされているからだ。
狼車なども冬様の恩恵を受けているにすぎず、領民以外もそれを心得ていたはずだが。
「喰い返されても、文句は言えぬよのう」
「早急に時丸へ伝えます。申し訳ありません」
優斎は生唾を飲み、深々と頭を下げた。今ここで首の骨を噛み砕かれてもおかしくはなく、心臓の鼓動が早まるのを自分でも感じていた。
「はて、あやつが髪に刺しているのはお主がつけたのか?」
瞬きを忘れた優斎がゆっくりと顔を上げる。冬様は入道に目をやっていて、優斎が戸惑いながらも視線を追った。
「俺ではうまく結べなかったので、菊花にしてもらいました。けど、用意したのは俺です」
今日も入道は銀の簪をつけている。意外と気に入ってくれたようで、朝、入道が無言で簪を差し出してきたときは目が丸くなった。
だが、髪の毛を結う機会などなかったため、朝餉の席で菊花に頼んだのだ。南都へ戻る頃には一人でできるように教えてあげると、菊花が意気込んでいた。
「そうか。それはずいぶん仲睦まじくなったのう」
冬様が目尻を下げ、優斎は入道を一瞥した。
「納得いっとらんようじゃが、思うことがあるのか?」
「入道と仲良く見えるでしょうか」
優斎が控えめな声で聞くと、冬様はにんまりと口角を引いた。鋭く尖った犬歯を覗かせ、愉快そうに目を細める。
「わしが嘘を吐いたと」
「い、いえ! そういうつもりでは、なくて……」
「ならばどういうつもりじゃ」
のそりと体を起こした冬様が、優斎を厳かに見下した。ぴり、と空気が締まり、圧迫するような緊張感がその場を支配する。冷気が足元を流れていき、身体が震えた。
しどろもどろになりながらも弁明しようとするが、思うように声が出ない。気がつけば冬様は眼前に距離を詰めていて、
「のう、人の子よ」
圧倒される重圧感に、優斎は呼吸をすることも忘れて固まった。
「戯れがすぎるぞ、獣」
ふいに目元を覆い隠された優斎の体は後ろに引かれ、誰かの温もりが背中に伝わった。否、誰かではなく入道だ。
入道は聞いたこともない、地の底から響いてくるような低い声で冬様を威圧した。
「土地神とて容赦はしない。よもや小生と相対して生きながらえると思ってはいないだろうな?」
入道の明確な敵意に友好的だった狼たちが、ぐるる、と足元で唸る。さらには鳥が雪を散らして飛び立つ音が優斎の耳に届いた。
「ふん。このわしが喰ろうてくれるわ」
「瞬きの間に終わらせてやろう」
冬様が足を前に出した。
「入道! だめだ、やめろ!」
咄嗟に優斎は声を荒げ、入道の手をはがして離れる。
「なぜ止める?」
入道が苛立たしげに優斎と視線を合わせた。
「俺が失言したからだよ。今ここで死ぬ運命なら、俺はそれを甘んじて受け入れる。だから、戦ってはだめだ」
入道と冬様とでは、勝つのは入道だ。どれだけ崇高な神様であろうと入道に勝てはしないのだと、お師匠が言っていた。
それに止める理由が、冬様がいなくなり、北都の守護が消えてしまうからとまで伝えてしまったら、孤高の狼にもっと怒られるに違いないだろうから。
「潔し」
冬様の声が凛と響き、ぐわりと大きく口が開けられた。
「――小生がいるのだから、優斎。お前が死ぬ運命などない」
入道が誇らかに、けれどふわりと微笑んだ。
「え?」
すんでのところで冬様の動きが止まっていた。そして何事もなかったかのようにぱたりと牙は隠され、きょとんとした様子で優斎と入道を見つめている。
「いくら久しい再会とはいえ、喜戯しすぎではないか? なあ、冬の神。優斎は少しばかり臆病なのだ。手加減してやってはくれないだろうか」
「ふむ。少しはしゃぎすぎたかのう」
剣呑な雰囲気はどこへやら。欠伸を落とした冬様は、また白い大樹の根元に寝そべった。それを倣うように、二人を囲んでいた狼たちも微睡み始めている。
「えっと……?」
「帰るぞ」
戸惑いながらも入道の後を追い、雪原から森へ入った優斎の背中に声がかかった。
「吐かれた嘘が全て、他者を傷つけるためのものではないことを、人の子は知っておろう」
冬様の言葉の意図がわからず、優斎は真意を尋ねようとした。が、振り返った優斎の瞳に映ったのは、ただ平然と広がっている木々。
残念だが、冬様へ繋がる道はすでに閉ざされてしまっていた。
「なにをしている?」
「吐かれた嘘の全てが他者を傷つけるためのものではないって、どういうことだろう?」
「なに?」
「冬様が、今そう言ったんだ」
入道はしばらく悩み、「気にするな」とだけ答えた。なにか思い当たる節でもあったのだろうか。些細な顔色の変化を感じ取っていたが、優斎が追及することはなかった。




