十九話 瑠偉
「優斎様! 優斎様!」
深夜。毎晩のごとく屋敷を巡回していた優斎に、調理服を着た使用人が青い顔をしながら駆け寄ってきた。言葉は喉につっかえ、しどろもどろになって優斎に縋りつく。
「どうしたんですか?」
「こえっ……こ、声が!」
「すぐに案内してください」
慌てふためく使用人は優斎を連れ、声が聞こえたという場所へ足を向けた。
「た、たしかに談話室から聞こえたんですが……ここの前を通ったときに、さっき、ほんとに聞こえたんです!」
「今は、聞こえませんね。時丸と入道を連れてきてもらえますか?」
使用人に呼んでくるように頼み、優斎は深呼吸をしてから談話室の扉を開けた。手元の明かりを頼りに暖炉へ火をつけ、室内の燭台にも灯していく。
ぱちぱちと火の粉が飛び、ひんやりとしていた空気が少しだけ和らいだ。
「君でしょ? いったい、誰を呼んでるの?」
異国の女の絵の前に優斎は立ち、絵の近くにあった丸机を寄せて燭台を置く。女の微笑みが怪しげに照らされた。
「君は――」
「優斎!」
ばたん、と派手に扉が開けられた。絵画に語りかけている優斎を目にした途端、時丸が血相を変える。優斎の肩を掴んで引き、揺さぶった。
「お前まで、この絵と」
「大丈夫。俺はこの絵画に魅せられてなんかいない」
優斎が説明しようとしたとき、遅れて入道もやってきた。言伝を任せた使用人は二人を連れてくるなり足早に厨房へ向かったようだ。
「謎の声の正体はこの絵画だよ。生きてるんだ」
「は? なに、を……旦那みたいなことを」
優斎の言葉を継いだ入道が、渋面を作った時丸の一歩前に出る。
「正しくは付喪神。長い年月を経て扱われた器物に霊魂が宿ったものだ。たかだか紙に宿るなど聞いたこともなかったが」
まじまじと見つめていると、絵画の微笑みが崩れた。
「あの人を、探していますの」
流暢に口が動き、時丸は目を見開いた。
「あの人を、探していますの」
絵画は同じ言葉を繰り返す。
「まず、君の名前を教えてくれる?」
優斎が問いかけると絵画は素直に応じた。
「瑠偉、そうお呼びください」
「そう。教えてくれてありがとう、瑠偉様」
「敬称はいりませんわ。そんな身分ではありませんもの」
早くも順応した優斎と違って、すっかり腰が引けてしまっているのが時丸だ。入道の背に隠れ、瑠偉と名乗った絵画と優斎のやり取りを見守っている。
「俺は優斎。背の高い男が入道で、その後ろにいるのが時丸。君にはいくつか聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「ええ。話す方がいなくなってしまって、寂しかったんですの」
瑠偉が悲しそうに眉を下げた。
「あの人っていうのは冬枝様のこと?」
「違いますわ。夫を探していますの」
「夫?」
瑠偉は目を伏せて頷いた。
「一緒にいたはずでしたのに、いなくなってしまいましたわ」
瑠偉の頬に淡青の絵の具が伝った。額縁の外に消えれば、また元の絵画に戻るのだから興味がそそられる。
「冬枝さんに連れてこられたときは、たしかに一緒にいましたの。けれど今はどこにもいません。悲しくて泣いていましたの。寂しくて呼んでいましたの」
「冬枝という人間とお前は会話していたのか?」
「冬枝さんは毎晩、私に話しかけていましたわ。一度だけ返事をしましたら、次はここに連れてこられてしまいましたの」
大方、怖くなって冬柴の家に押しつけてきたのだろう。だが妻と重ねてしまった絵画のことを忘れることができず、会いに来たというところか。
「瑠偉の夫はどんな絵……人?」
「あの人は画家でしたの」
瑠偉もその画家である夫に描かれた絵だそうだ。
妻を早くに亡くした画家は毎日のように瑠偉の絵に話しかけていた。しかし、ついに画家も亡くなり、遺物である絵画たちは売りに出されてしまった。
そうして画家の自画像と瑠偉の絵画は海を渡り、貿易日に冬枝の元へやってきたのだ。
「普通の絵には戻らないのか?」
「喋らなくさせたいのならば燃やすしかないだろうな」
時丸の問いに入道が淡々と答える。自我を持ってしまった以上、燃やすのはなんともいたたまれない。優斎と時丸が微妙な顔をした。
「付喪神は善き神にも悪しき神にもなりうる」
優斎は頭を抱えた。このまま冬枝に絵画を返したとして、なにも起こさないとは限らないだろう。そもそも喋り始めた絵画に恐れをなして押しつけていたのなら、またいつ放り出してしまうかもわからない。
どちらも不安定な状態には違いないのだ。返すか、誅殺するか、どうするのが最適なのか。
「お前は、どうしたい」
沈黙が流れる中、時丸が瑠偉に問う。
「あの人と一緒にいられるのなら、他になにもいりませんわ。望むのなら、二度とこの口を動かすことはいたしません。並べて、飾ってくれるだけで構いませんの」
その答えを聞き、時丸は決意を固めて頷いた。
「やっぱり、旦那に返そう。燃やすのはだめ。旦那に全部話して、断られたのならこの絵画が求めている絵画を俺が買い取る」
「時丸が決めたなら、わかったよ」
「それと、旦那のところには俺一人で行く。腹割って話さないといけないから、優斎と入道様は来ないでくれ」
優斎は陰陽師として反論しかけたが、「頼む」と切に懇願されて口を出せなくなってしまった。陰陽師という立場からではなく、友人としての立場を優先したのだ。
「だからお前は甘いのだ」
と、入道には失望を露わにされたが、全くもってその通りである。でも、それくらいは譲ってやりたいとも思った。
「人間を脅かすことはしないと、その名に誓える?」
「付喪神――いえ、瑠偉という名に誓いますわ」
真名を知ることによって相手を支配できる。人間はともかく妖や神様の世界では常識として扱われる事柄だ。まじない的な要素が強い見識ではあるが、契約などは強固で絶対的なものとすることができる。
「とは言ったものの、もしなにかあったら必ず俺を呼ぶんだよ。すぐに行くから」
「ああ」
最後に瑠偉へ顔を向けると、もう絵画に徹していた。
時丸一人に任せっきりにしてしまうことに不安は残るが、これは冬の家の問題であって、優斎が立ち入っていい問題ではないのだ。陰陽師という役職を笠に着せてしまえば土足で踏み込めるが、本人の意向に沿わないことはしたくない。
そうして話がまとまり、部屋へ戻るとき、
「手始めに誅殺するには、いい相手と思ったが」
ぽつりと呟かれた入道の言葉に、優斎は聞こえないふりをした。