十八話 遅すぎる
「あの様子ではもう立ち直ることはないでしょうね。この絵画は返却するのがよろしいのではないでしょうか」
「優斎、なんとかできない?」
「俺は医者じゃないよ。妖に干渉されたのならできるかもしれないけど、冬枝様はそうじゃないでしょ。だから俺も伊織の意見に賛成する。よほどあの絵画に心酔してるようだから、少しでも安らぎを与えたいのなら返したほうがいいと思う」
あくまでこれ以上の悪化を防ぐための措置にすぎない。臭い物に蓋をするわけではないが、当人の幸せを考えればそれが最善ではなかろうか。
「それでも、時丸がどうしても救いたいのなら、最後の猶予として話し合ってみよう。救えるか救えないか、見極めることくらいならできる」
「優斎……」
「けど、少し日を置こうか。あの興奮状態ではまともに話なんてできはしないからね。あと、入道にはもう会わせないほうがいい」
「こちらとてあんな人間、願い下げだ。まだ堕神のほうが可愛げがある」
全く動じていない入道は拒絶を示した。逸らした顔には、自分はなにも悪くないと言いたげな表情が貼りついている。実際、入道は思ったままを聞いたにすぎないのだから誰も責めることはない。
「空気が淀んでいるな。小生は部屋に戻る。お前も、少し寝るべきだ」
入道が優斎の腕を引く。
伊織と菊花が目を瞬かせ、時丸は微かに目を見開いた。一拍遅れた優斎はぽかんと口を開け、入道を不思議そうに見上げている。
「おい、なにをしている」
より強い力で引っ張られ、優斎が絨毯につま先をひっかけてつんのめる。
「入道様が……っ」
「ついに、優斎に、直接的に」
「おやおや」
三者三様の反応を背中に浴びるも、依然として優斎はあ然としていた。
今まで入道に手を引かれたことなどあっただろうか。正しくは腕だが。突然の歩み寄りに思考がまとまらず、理解も追いつかない。
優斎は頭が真っ白になり、半ば魂が抜けかけたような形相になっていた。
「今、眠れ」
「え、今? ここで?」
「部屋へ戻ると言っただろう」
すん、と素に戻った優斎を蔑むような顔で見下ろす入道。
「あの人間にあてられたか?」
優斎の頬を片手で乱暴に掴み、引き寄せ、見定めるように目を覗き込む。上を向かせられたことにより気道が狭まり、優斎は空気が漏れるような呻き声を出した。
「喉、喉絞まってる」
時丸が入道と優斎の間に割り込み、優斎はなんとか窒息を免れる。
「人間は簡単に死ぬんだから」
時丸が自身の喉をとんとんと叩いてみせると、入道が「ぐ」と眉をひそめた。
「優斎はそんなにやわではない」
「うん。けど強くもない」
あっけなく言い負かされ、入道は不機嫌に鼻を鳴らした。
「でも、入道様の言う通りで薄いけど隈もある。夕食まで寝てたら?」
「あ、うん。そうするよ」
ふらふらと部屋に戻る優斎の後ろをひよこのように辿っていく入道。
「優斎ってばまだぽかんとしてる」
「優斎は入道様に嫌われていると思っていますからね。腕を引かれたのも心配されたのも、足元から鳥が立つ思いなのでしょう」
こそこそと交わされる話にも耳を傾けず、談話室を出る際に入道はなぜか得意げな顔を三人に残していった。
部屋に戻った優斎は大人しく寝台に潜り、すぐに寝息を立て始めた。まさかそんなにすぐに寝るとは思わなかったのか、入道がこっそり布団をめくって確かめていた。
確認を終えた入道は鏡台の椅子に腰を下ろして項垂れた。
「優頼とは比にならんほど、敵が多すぎる」
入道は台に肘を置き、頬杖をついた。鏡に映った自分を凝視して目を伏せる。どうしたものかと考えようとしたとき、入道はぱっと目を開いた。
自分の姿といつもの外見に差異があるような気がしたのだ。菊花に髪を結ばれたことが違和感の原因だろうか。何気なく傾けた入道の頭が、ずるりと手のひらから滑り落ちた。
「簪、か?」
そういえばあのとき、優斎がこそこそと菊花になにかを手渡していた。やたら菊花がにやにやして賛美していたのは、こういうことだったのか。
「また珍妙なものを。全く――遅すぎる」
そんな口の悪さとは裏腹に、鏡に映る自身の口元が綻んでいることに入道が気づくことはなかった。