十五話 よい話とよくない話
広すぎず狭すぎず、二人で過ごすにはちょうどいい生活空間だ。二つ並んだ寝台には寒さをしのぐ毛布があり、手触りはとても気持ちがいい。
部屋の四隅には燭台が固定されており、すでに新品の蝋燭が用意されていた。あとで火を貰わなくてはならない。
窓の外を見ると雪は降っていないが、風が強くなっていた。外の音は部屋に入らない仕組みになっているようだ。
「人間が多いな」
窓の向こうを眺めていた優斎が振り返る。
「わかるの?」
「ああ。魂の数だけ運命があるからな」
「なにそれ」
入道は寝台に寝そべりながら毛布の感触を楽しんでいた。表情は少し不機嫌に思えたが。
「夕餉まで時間があるよね。少し屋敷を見てこようかな。入道は来る?」
「やめておけ。今は部屋を出ないほうがいいだろう。なるべく人間にも会うな」
「え、なんで?」
「知りたいか?」
じっと見つめられ、優斎は思わずたじろいだ。理由も教えてくれず理不尽な要求には変わりないのに、知ったらだめだと脳が警鐘を鳴らしている。
「知りたくは、ないな」
入道は空気が抜けるように笑い、「賢明だな」と目を細めた。
各々が寝台に腰を下ろしたり横になったり。弾むような会話もなければそれを交わす理由もない。そうして食事に呼ばれるまで、二人はただただじっとしていた。
「喧嘩でもした?」
「することがなにもなくて」
「ああ」
時丸に憐みの瞳を向けられた気がした。
気を取り直して食卓に視線をやると、豪勢な食事が机に並べられていた。南都では魚料理が主食だが、北都では肉料理が主食らしい。中央に置かれた大皿の肉から上る湯気が鼻腔を掠め、なんとも食欲を掻き立てられる香ばしい匂いだ。
「そうだ、優斎。よい話とよくない話があるが、どっちから聞きたい?」
「え、いきなりだね。どちらかというと、よい話かな?」
「明日か明後日に伊織が来ることになった」
優斎はぽかんとし、入道は眉をひそめた。
「な、なんで?」
「さあ。東都の領主に命じられたとかなんとか。詳しい話は聞いてない。興味ないから」
淡々と話し、栗鼠のように料理を頬張る時丸。
「じゃ、じゃあよくない話は?」
優斎は平静を装うために水を一口含んだ。
「菊花も来る」
「ふぐっ」
「大丈夫か? 水……は、意味ないな。布巾を持ってきてくれ」
水を吹き出し、咳き込む優斎に対し、時丸は努めて冷静に使用人へ指示を出していた。使用人が慌てて濡れた口元を拭おうとしたため、優斎はさらに狼狽えた。
「ははっ」
「笑い事じゃないよ、入道!」
口に手を添えて破顔した入道に、優斎が拳を作って卓に振り下ろす。それに怯える使用人、ふためきながら取り繕う優斎。
「わ、わざとじゃないんです! あの、ほんとに……すみません」
笑いを堪えきれていない入道に、黙々と喉に食事を通していく時丸。
「っ……時丸! 菊花も来るってどういうこと!?」
「そのままの意味」
「そうじゃない!」
またも握り拳を作ってしまった優斎だが、今度は押しとどまった。使用人が安堵している。
「菊花に優斎が来ることを教えたら、菊花も来たいと。だから許可した」
「そもそもなんで伊織がよくて菊花がよくない話になるんだよ……」
「菊花はうるさいから?」
「主人には頭も上がらんのだろう」
入道が挑発的な笑みを浮かべながら口を挟み、思わぬ流れ弾に時丸はと胸を衝かれた。
「まだ主人じゃない」
「まだ、か。果たしてそうだろうか?」
時丸はこてんと首を傾げた。記憶が正しければ菊花にはまだ忠誠を誓っていないはずだ。それに優斎と違い、時丸たちが戴冠式を迎えるのはもっと先だというのに。
「でも、久しぶりに会えるのは嬉しいよ。伊織はともかく菊花には邪魔されないようにしないといけないけど」
「伊織と菊花には声のことは伝えてない。聞かれたら教えるけど」
「不用意に怖がらせるのもね。まあ、二人が怖がるとは思えないけど」
食事を終え、自室に戻る前に優斎は時丸に呼び止められ、
「ここ最近、来客が多いから応接室にはなるべく近寄らないでくれ」
そう釘を刺された優斎は、入道の言葉を脳裏に浮かべながら了承した。
陰陽師は武士の家系からあまりよく思われていないのが実情である。人知の及ばぬ存在は得体が知れず、常に畏怖の念を抱かれる。武力だけでは太刀打ちできないそれらを容易に従わせ、心を通わせる陰陽師もまた、彼らにとっては異端なのだ。
「今日は疲れたな」
優斎は寝台に倒れ込むようにして横になった。湯浴みの帰りに貰ってきた蝋燭が、燭台でゆらゆらと照らしている。それを眺めているとやがて眠気に襲われて、閉じていく瞼には逆らえず、優斎はそのまま深い眠りに落ちた。
翌朝、入り込んだ朝日の眩しさで優斎は目を覚ました。一分ほどぼんやりと天井を眺めていた優斎だったが、意識が覚醒するとはっとして飛び起きた。
「忘れてた!」
「よく眠れたか?」
隣の寝台ではすでに起きていた入道が優斎を見ていた。
「見ての通りぐっすりだったよ」
うつらうつらとする頭をもたげ、大きなあくびを落とす。昨晩は怪異が起きるか確かめておきたかったのだが、すっかり頭から抜け落ちてしまっていた。これではただ遊びに来ただけになってしまう。
朝餉の際にそれを時丸に謝り、優斎は気を取り直して調査を開始した。まずは使用人に話を聞きにいかなくてはならない。
「怪異? ああ、声が聞こえるってやつですか。それなら私ではなく……ほら、あそこの」
厨房で暇そうにしていた使用人へ声をかけると、やる気のなさそうに別の使用人を指さした。ちらちらと優斎たちを窺っていた使用人は「見ていません」と表明するかのように、皿に手を伸ばしていた。
「すみません。話を聞きたいのですが」
「は、はい!」
「あなたが聞いた声はどんな声でしたか?」
上ずった声を出した使用人は胸に手を当てて落ち着こうとしていたが、優斎の問いかけに顔を青くした。
「なにを言っていたかはわかりませんが、泣いているような声でした。女性の声だと思いました。怖くなってその場から逃げてしまったんですけどね」
それから優斎は手当たり次第に使用人たちへ聞き込みをしていったが、これといった有用な情報を得ることはできなかった。
声を聞いた全員が全員、怖くて声の源を辿らなかったらしい。
「武士の家の者が聞いて呆れる」
「使用人ってだけで、彼らは武士じゃないから」
しかめ面をする入道をなだめていると、甲高い声が二人の耳を貫いた。
「あー!」
顔を向ける間もなく、気づけば優斎はなにかに突進されていた。勢いを受け止めきれず、そのなにかを腕に抱えたまま優斎はひっくり返る。
「ごめーん、優斎!」
上に乗ったまま、にこにことしている上機嫌な菊花と目が合った。
「なにをしている」
「わわっ」
目を白黒させた優斎を面白がり、いつまでもどかない菊花の首根っこを入道が掴んでぐいっと持ち上げた。
だらりと腕を伸ばした菊花が「あはは」と声を漏らす。ぶつけた頭をさすりながら、優斎が口をへの字に曲げた。
「菊花……」
「なーに?」
悪気もなければ反省の色もない。質の悪い無邪気だ。
「次はないと心得よ」
入道が鋭い睨みを利かせ、ゆったりと近寄ってきた時丸に菊花を押しつけた。
「使用人に話は聞けた?」
「ああ、うん。聞けたけどあまり参考にはならなかったよ。こればかりは自分の足で頑張るしかない」
立ち上がり、肩をすくめる優斎。
「それと全員を確認したけど、体に異常はないと判断したよ。幻聴の類ではないだろうね」
「なんの話してるのー?」
「菊花には関係のない話。気にしなくていいよ」
仲間外れにされていると思ったのか、菊花が口を尖らせて文句を垂れる。しかし、またも入道に睨まれてしまい、菊花は猫にように縮こまった。さすがに神様に逆らうほど肝は座ってないらしい。
「伊織はまだ来ていないんだね」
「ああ。俺もいつになるかはわからない。お偉方と話さなくてはならないことがあるんだと。それが終わらない限り、ここには来れないだろ」
時丸と菊花は将来、主従の関係になるのだが、実のところ時丸よりも伊織のほうが菊花の扱いに長けていると優斎は思う。
時丸は菊花のすることを肯定も否定もせず、我関せずといった様子で見守っているだけである。対して伊織は菊花の機嫌を損なわないように、うまく誘導するように手を差し伸べている感じだ。
もちろん菊花のことが嫌いなわけではない。優斎を対等な存在として接してくれる数少ない人間で、友人であることには違いないのだが。よく言えば元気すぎ、悪く言えば能天気すぎるのだ。誰しも、被らなくていい気苦労は回避しておきたいのが常だろう。
「歓談中、失礼いたします。時丸様、伊織様が到着なされました」
「伊織なら許可なく通していいと伝えなかったか?」
「伊織様とともに春芽様が謁見の許可を求めております」
「……許可する。だが、伊織を同席させろ」
使用人を遣わせた時丸がくるりと振り返り、優斎と菊花の背中を押した。
「悪いが、部屋で待っていてくれ」
「やな感じー」
と、口では言いながらも菊花は時丸に素直に従っていた。
春芽。伊織と同じくしてその姓に『春』の名を冠する家の者だ。吹春の分家にあたり、全体的に血の気が多い者がいる印象だが名実ともに実力は折り紙付きである。宮廷での立場も吹春家の次と言っても過言ではないくらいだ。
だから、武力を重きに置いているためか、なるべく穏便に物事を進めたい優斎は武士が得意ではない。武士たちも陰陽師である優斎のことを目の上のたんこぶとでも思っているだろう。
それに、特に春芽家はそれが顕著に表れているように感じてならない。みながみな、伊織のようだったら、と優斎は心を苦しめられる。
「武士たちって皇帝とそりが合ってないと思うんだよねー」
「菊花、ここも武家だから。あまりそういうことは声に出さないほうがいい。誰が聞いているかわからないんだから」
「でも、優斎もそう思うでしょ?」
肯定はしないが、否定もできない。
御年七十を越える当代皇帝は平和的で温厚な人柄だ。戦を好まず、争いを避ける思想は優斎の理想と合致している。
「皇太子は、正反対だけどね」
つい口が軽くなり、優斎は菊花の問いに小声で応じた。
噂で聞くには、皇帝の子息はあくまで趣味にすぎないが、武士のように剣を握るという。それが趣味の範疇を越えてしまったら。あまり想像したくない未来だ。
「伊織もいつか、ああなっちゃうのかな」
部屋に着くと、菊花がしんみりと呟いた。
「そうならないことを祈るしかないよ」
ないとは言い切れないことが、どうにも歯がゆい。所詮、筆しか握らぬ者には武器をとる者の苦しみなどわかるわけがないのだから。
二人で顔を見合わせ、肩を落としたところで扉が叩かれた。
「入るよ。伊織も一緒」
「お久しぶりですね、菊花、優斎。手違いと言いますか、予期せぬ来訪があったために。こうして再会が少しばかり遅れてしまいました」
穏やかな笑みで再会を彩ってくれた伊織に菊花と優斎が駆け寄った。こうして四人が揃うのは、優斎の戴冠式以来だ。
「春芽様にはもうお帰りいただいたので、なにも心配いりませんよ」
「そうでもない。ここ最近、お偉方がよく来る」
「え……ここに、ですか? それは、時丸に会いに?」
伊織が目をぱちくりとさせた。
「俺に、というわけでもない。父上に渡してほしい文書があるとか。王都で渡せばいいものを」
「そうでしたか。それでは優斎や菊花から遠ざけねばなりませんね。もし、武士から気分を害するようなことを言われたら、すぐ僕に言ってくださいね」
「うん。ありがとう。でも大丈夫だよ。みんなが傍にいてくれるから」
それぞれ温度差はありながらも、会話に花を咲かせる四人を入道が遠巻きに眺めていた。
その瞳を静かに冷たく揺らしながら、片時も目を離さずに。