十三話 会いたい
「酷ぇ有様だろ?」
呆然としている時丸と安堵していた優斎に、すぐ近くで商売していた男が声をかけた。男は移動式の屋台を構えていて、並べられた容器からすると果実水を売りにしているようだ。
「ついこないだのことさ。そこに店構えてた女が、実は客を襲ってたって話だぜ。駆けつけた武士が斬りつけたらいきなり爆発したんだってよ。女はその騒ぎに乗じて逃げたってわけだ。どこかに火薬でも仕込んでやがったのかね」
だから商売人の寄りつかなくなったこの場所に、移動式の屋台を活かした男はこれ見よがしに転移してきたという。宮廷からもさほど遠くない位置であるため、事件さえ気にならなければ好物件なのだ。
「おかげで俺ぁ大繁盛だ!」
豪快に笑う男から果実水を二つ買い、優斎は当惑している時丸を連れてその場を離れた。涼しげな脇道に入り、時丸に拾っておいた木箱と果実水を一つ渡して座らせる。
「大丈夫?」
時丸が果実水を口に含んだことを確認してから、優斎はもう一度問いかけた。
「ああ。混乱はしてるけど」
「店があったところに、木片と一緒に石が散乱してた」
「俺は、化かされた?」
けれどたしかに商品は受け取っているわけで。中身を確認しても鉄がちゃんと入っているし、ただ騙されただけとは思えない。
「化かされたわけでは、ないかな。多分あれは石妖だろうね」
「せき……妖?」
「石妖。そう、妖だよ。石妖に按摩されると寝入ってしまうんだけど、按摩された箇所には傷ができる。つまり、本当は眠っててしまうのではなく激痛で気を失ってしまっているだけ、という話」
石妖はあるとき猟師の銃弾を受けたが、その姿は忽然と消え、砕け散った石だけが残されていたという。だが消えたあとも度々現れているから石の化身なのだろうと、優斎はお師匠から聞いている。
「ともかく、時丸が無事でよかった」
「ありがとう。これは、使える?」
蓋を開け、時丸は鉄を優斎に見せる。
「うん、ただの鉄だよ。けど石妖が持ってた鉄だから、もしかしたらすごくいい鉄かもね。俺は石に詳しいわけじゃないから、それは時丸のほうがよくわかると思うよ」
「そう。よかった。優斎はなにを買ったの」
「いや、これは……なんだっていいでしょ」
「簪だろ。見てた」
「じゃあ聞かないでよ!」
優斎が顔を赤くして怒る。青くなっていた時丸の顔色はだいぶましになり、友人をからかう気力も戻ってきたようだ。けどささやかな仕返しとして、優斎は不満を零しながら時丸を小突いた。
「俺はもう帰るよ。石妖について情報を集めないといけないから。もし具合が悪くなったりおかしいと思うことがあったりしたら、文を出してね」
「仕事から逃げてきたのに、仕事が増えたな」
「俺にしか解決できないことだから。普通の人には妖の仕業かなんてわからないし……お師匠だって、こればかりはどうにもならなかったみたいだしね」
人為的な事件でも妖の仕業だとして優斎に回ってくることが多々ある。陰陽師でない人間には判断のつけようがなく、いっそのこと選別することなく全ての事件をよこしてほしいとも優斎は思う。
もしそうなれば、膨大な時間と労力を消費することになるが。
「検問所まで送る」
「いいよ。俺はなんともないし、本来なら時丸のほうが送られるべきだと思うんだけど」
「俺は優斎みたいに貧弱じゃない」
「はいはい。じゃあお言葉に甘えるよ」
時丸に付き添われ、優斎は検問所まで戻ってきた。帰りは特に目を光らせていたが、妖を捉えはしたものの害をなそうとする輩はとりあえずいなかった。
妖や堕神にとって陰陽師は唯一の天敵ともいえる人間だ。存在を誇示しておくだけでもその抑止力は絶大なものとなる。
「そうだ。伊織のとこの話、聞いた?」
検問所で馬を用意してもらっているとき、ふいに時丸が声を潜めた。
「伊織の話? なに?」
「いや、伊織の話じゃない。東都の、春の名を冠する武家の話。どこかまでは聞いてないけど、しばらく春の名を没収されるらしい」
「没収!?」
こくりと時丸が頷き、耳を貸すように優斎へ手招きした。
「なんでも、春様の花畑を荒らしたらしい」
「え、それって……」
思い当たる節がある。たしか、春根という武家だったはずだ。
「知ってるのか? まあ、春様のことだしな。優斎が知ってても不思議じゃないか」
「う、うん。あ、馬の準備ができたみたい。俺もう行くね」
時丸の話は心の内に留め、優斎は馬へ跨った。伊織の立場上、近しい身内が起こした事件のため、相手が時丸だとしても言いふらすのはよくないだろう。
時丸に別れを告げ、優斎は預けていた馬を操り南都を駆ける。麻袋と木箱を大事に抱え、一直線に駆け抜けた。脱兎の勢いで過ぎていく見慣れた景色が、瞳を流れていく。
「あー、生き返る」
あっという間に屋敷に着き、雑念が風で吹き飛んだように頭の中がすっきりしていた。全力疾走してきたというのに、優斎と違って疲れた様子のない馬を厩舎に戻して屋敷に入る。
「ただい――」
「どこへ行っていた!?」
玄関でうろうろと落ち着きなく動いていた入道が、扉を開けた優斎に掴みかかった。ぎりぎりと音が鳴りそうなほど指が肩に食い込み、追い打ちをかけるように前後に体を揺すられる。
「ぐぅ、え」
ぐわんぐわんと首が動きながらも入道の声が耳に届く。なにを言っているかはわからないが、怒りだったり焦りだったりが伝わってくるのはたしかだ。
けれど、美丈夫はどんな表情をしても絵になるな、と優斎は呑気なことを考えていた。
「聞いているのか」
今度は肩ではなく、がっと片手で頬を掴まれた。視界が定まり、じとっとこちらを睨む入道と目が合う。いつものすまし顔が、珍しく崩れていた。
「んん、んぐ」
口を覆うように頬を掴まれているため、声が言葉となってくれない。もごもごと口を動かす優斎を見下ろした入道は、小さく息を吐いてその手を離した。
「いきなりなにするんだよ。びっくりしたでしょ」
今度は優斎が入道を睨んだ。肩も頬もじんじんと痛んでいる。無視をする入道に優斎は苛立ちを覚えた。訳もわからず怒鳴られたというのに、腕に抱えた代物を落とさなかったのを褒めてもらいたいくらいだというのに。
入道は乱れた髪を整え、憂いを帯びた視線を彷徨わせている。
「俺がいない間になにかあったの?」
「なにかあったのはお前のほうだろう」
「え、まあ。あったにはあったけど、なんともないよ。それに標的は俺じゃなかったし」
「標的がお前でなくとも危険なことに変わりはない。ああそうだ、死んでいたんだ。小生がいなければ太刀打ちもできない童が」
ふん、と鼻を鳴らした入道はそう吐き捨てて屋敷の奥へと消えていった。明らかに「調子に乗るな」だとか「自惚れるな」だとかの悪態が込められていた。
優斎はいまいち入道の心情を理解できなかったが、いつまでもここで呆けているわけにもいかず、とぼとぼと厨房へ向かった。
茶箪笥に角砂糖の瓶を一つしまい、残りの一つは自室でもある書斎へ持っていく。木簡や羊皮紙に向かっている時間は、脳が特に糖分を欲するのだ。
書斎に入って左右の壁には本棚があり、正面には光を取り入れるために小窓のついた壁がある。小窓の壁と挟まれるようにして置かれた座椅子と文机には、古びた本がいくつも重ねられていた。
左右を埋める本棚には歴代の陰陽師たちが集め、後世へと残してくれた書物が並べられている。その中でも鍵をかけられた棚が一つ。優斎もそれを開けるための鍵をお師匠から受け継いではいるが、あまり手を伸ばす気にはなれない。
世に出回らなくなった禁書が収納されているからだ。確立した力がないうちは読まないほうがよいと、お師匠に釘を刺されている。
「お師匠」
座椅子の背もたれに体を預け、ぼうっと天井を眺める。お師匠が亡くなってから、何度この木目を数えただろうか。
「お師匠……」
心労も重なって、優斎の目尻がじわりと滲んだ。
「――会いたい」
貿易日に異国の茶葉を買い漁っては、毎日のように注いでくれた紅茶。必ず、二つ角砂糖を入れていた。
優斎は角砂糖の瓶を抱き締め、声を殺して泣いた。
お師匠がいてくれたら。お師匠が生きてくれていたら。お師匠に、なれたなら。
涙と一緒に弱音がぽろぽろと零れ落ちていく。皇帝からは過度な期待が寄せられて、各都の領主からは煙たがられる。お師匠が残してくれた入道でさえ、認めてくれない。
「ああ、そうだった……」
一しきり泣いて落ち着いた優斎は、文机に置いた木箱も一緒に抱え込んだ。些細な口論で、渡せなかったのだった。
入道の壮麗な銀髪と、純美な銀の簪に添う濃緑な玉はよく似合うと思ったのに。渡せなくては、優斎が持っていても意味はない。
また一つ、悩みの種が増えてしまった。
「いつ、渡そう」
涙交じりの落胆は、廊下で聞き耳を立てていた入道にも届いていた。