十一話 悪いこと
「え」
菊花の顔が信じられないと強張り、入道につままれている動物に向いた。
鼻先が尖った顔に真ん丸の小さな耳、流れるようにしなやかな細長い胴体には、短い四肢を持っている。
それだけならまだ愛くるしい動物と言えただろう。だが前足の爪は暴力的に鋭く、長い。
「鎌鼬。そう呼ばれる妖だ」
あれがただの動物だったなら、肌に触れればたちまち血を見ることになっただろう。
「この屋敷の荒れようは、空き巣じゃない。全部あれの仕業だよ」
「ちょっと待ってよ。どういうこと? どうしてあの子が? ずっといい子にしてたんだよ。
たしかに爪は長いかもしれないけど!」
「一つ、拝借しておいたんだ。割れてしまった壺の破片。割れたにしては切り口が綺麗すぎると思わない? 全ての破片がこうだったんだよ。障子や几帳の切り口だって、言うまでもない」
破片を優斎から受け取った菊花はその断面を眺め、鎌鼬に視線を戻した。
「そして菊花や家政婦たち、領主様についたその傷。鎌鼬により受けた傷は痛みもなく血も出ないんだ。だから誰も気づかなくて、原因がわからなくて、呪いだとなってしまったんだよ」
加えて、菊花が動物を拾ってきてから怪異が現れたとなれば、誰だってその動物に矛先を向けてしまうだろう。
「私は、一度しか傷がついてないよ。でも屋敷の人たちは日に日に傷が増えていく。父上だって! それは、なんで?」
「それは怖かったんだよ。怪我をして、知らない場所に連れてこられたら菊花も怖くなるでしょ? 最初こそ怖かったけど、優しくしてくれる菊花のことが好きになったんじゃないかな。だから、菊花を傷つける人たちに傷をつけた……と、俺は思う。こればかりは聞いても教えてくれない」
菊花は傷のついた家政婦の顔を思い浮かべた。
この屋敷にいるならば誰もが菊花に直接的な関わりがあるし、家政婦たちは菊花に叱ってもいたのだからなおさら。
「今までずっといい子だったのに、なんでこんな酷いことしたの? たくさんのものが壊れて、家の中めちゃくちゃだよ」
「昨晩、お前が帰らなかったからに決まっている。獣型とはいえ妖を動物と同等に見るなど浅はかだ」
鎌鼬を乱暴に揺らした入道が、冷たくも正論を口にする。
「で、でも私知らなかった! その子が妖だって」
「知らなかったからなんだというのだ?」
射抜くような眼光に菊花は口を閉ざした。
現に被害が出てしまっている。犯人を突き止めて正体を暴いた以上はもう、ここに置いておくことはできない。
「どうしても、だめなの?」
潤んだ瞳が優斎に縋る。
「菊花、厳しいことを言うけど勘違いしてはだめだ。今ここに俺と入道がいるから意思疎通ができていることを忘れてはならないよ。陰陽師でもない人間が、言葉なくして妖の要求していることを正確に理解できる?」
入道の暴挙に意気消沈しきっている鎌鼬は短い手足をだらんとさせている。きゅっと唇を噛み締めた菊花はぽろぽろと涙を零して、弱々しく首を横に振った。
それからは片付け、掃除、処理の繰り返しだ。鎌鼬は入道に預け、優斎と菊花は黙々と作業に没頭している。
入道に監視させている鎌鼬は幼子の玩具のように扱われ、恐怖心にかられてしまったとはいえ、灸を据えられるのには十分だったようだ。再び優斎たちが入道の元に戻る頃には平たく伸びてしまっていた。
「みなの傷も直に消える」
「ありがとうございます。入道様。優斎もありがとう。落ち着いたら、ちゃんと拾ったところに戻してくるから」
元気のない菊花を慰めることも優斎にはできず、鎌鼬の扱いについての諸注意を教えてから帰路へと着いた。
「なにを考えている?」
牛車に揺られながら、入道が問う。
「菊花、すっかり落ち込んでた」
「まさか、悪いことをした。などとは思ってないだろうな」
図星をつかれ、優斎は思わず口を噤んでしまった。
「お前は甘すぎるのだ。説き伏せることが叶わねば、殺さなければならないときがいつか必ずやってくる。いざというとき、優斎は小生にそれを命じられるのか?」
かつてお師匠が入道に、手に負えない妖や堕神の誅殺を命じていた光景が脳裏に浮かんだ。亡くなる前にお師匠はその方法も教えてくれたが、目にしただけで実際に下したことはない。
いつか自分も、入道に誅殺を命じなければならないときが来る。
それを自覚させられた優斎は手足の先が、急激に冷えていくのを感じた。いつになく真剣な入道に、優斎はついぞ答えられなかった。
◇◇◇
あるとき優斎はふと思い立ち、王都へ馬を走らせた。
牛車を準備する時間も御者を呼びつける時間ももったいない。ふらりと厩舎に足を向け、繋いでいた一頭に手際よく馬具を取りつけて屋敷を飛び出した。
王都は宮廷を中心として四方に分断され、それぞれの都を大通りが繋いでいるような構造になっている。人や物が集まり、市場として活用されている大通りは常に活気で溢れていた。
「今日は人が多いな……」
王都と南都を隔てる検問所に馬を預けながら、優斎は宮廷までの道に目をやった。
「まだまだ貿易日は終わりませんからね。ご存じありませんでしたか?」
海に囲まれた島国である四季之国は年に二回に限り、外海から入れ代わり立ち代わりやってくる貿易船と交易をする期間がある。文字通り、その期間を貿易日と呼ぶ。
これは余談だが、四季之国において、真っ当な商人ならば同業者を出し抜こうなどと考える狡猾な者はいない。貿易日を守らなければ海神の怒りを買うと、各国でまことしやかに噂されているからだ。あくまで、噂である。
「最近は執務に追われ、部屋に籠っていましたので」
「もしよろしければ護衛をつけさせますが。人や物がより集まる貿易日はよからぬことを企てる愚か者も少なくありません」
「いや、護衛をつければそれこそ目立つでしょう」
腰に携えた刀をちらつかせた検問員に断りを入れ、優斎はその場を立ち去った。
連日のごとく書類に埋もれたことによって終わりがないと錯乱し、なにも考えずに逃げ出してきたのだ。優斎は自責の念にかられながらも、「ここまで来てしまったら仕方がない」と前向きに考えることにしていた。
甘辛そうなたれをまとった肉の焼ける匂い、色彩豊かに染め上げられた衣服、鼓膜を叩くどんちゃん騒ぎ。そんな様々な情報は、暴力的な刺激で五感に働きかけては誰もが持ちうる好奇な心をくすぐっていくのだ。
雛壇に並べられた三種類の瓶を売り物としている露店の前で、優斎は足を止めていた。瓶には並々まで詰められた角砂糖が入っている。それぞれ質は変わらず、瓶の大きさで値段が違うようだ。
「この瓶を二つください」
雛壇の最上段に置かれている一番大きな瓶を指さし、優斎は客の呼び込みをしていた小母さんに声をかけた。
「二つね。麻布で包んで袋に入れるからちょっと待ってな」
雛壇の裏に回った小母さんは瓶を手に取り、丁寧に麻布で巻いてくれている。袋へ入れたときに割れないようにする配慮がしっかりと行き届いていた。
気持ちが先行して一歩前に出たとき、
「動くな」
背後で低い声が耳元に響き、優斎の体が瞬時に強張った。遅れて、背中になにかを突きつけられていることに気づく。
瞬時に、検問員が言っていた「よからぬことを企てる愚か者」という台詞が脳裏に浮かんだ。まさか本当に現れるとは。優斎はごくりと唾を飲み、迎撃の意味を持って腰を落とそうとしたが、
「なんて、驚いた?」
身構えたのも束の間、見覚えのある顔が横から優斎を覗き込んでいた。
「え? あ、時丸!?」
洒落にならないような茶目っ気を披露してくれたのは、北都を治める領主の跡継ぎである冬柴時丸だ。
短く切り揃えられている黒髪、闇を零したような瞳。一切の汚れなく、足元まですっぽりと覆った真っ白い外套に身を包んでいる。異国の文化を取り入れた北都特有の装いだ。
首元の毛皮はふわふわと暖かそうで、ちらりと覗く口元が半月を描くことはあまりない。
おどけるような表情でも茶化すような声音でもなかったが、ひらひらと振られる手だけが再会を喜んでいるのはわかった。
「護衛もつけないで、余裕だな。入道様は……はぐれた?」
「いや、一人でここへ来たんだよ。羊皮紙とにらめっこしすぎて顔が疲れちゃったんだ。時丸こそどうしてここに? 偶然だね」
「鉄の調達」
時丸は手に持っていた大きな布包みを前に出す。自身の身長とさほど違わない大きさだというのに、優斎に見せてから顔色一つ変えずに背負った。先程、背中に突きつけられたものはこれだろう。
「ああ、矢じりのところか」
「そう。最近は鉄が市場に出てくることがどうしてか少ない。けど、少量ならたまに質のいい鉄が売られてる。貿易日ならなおさら」
布に包まれているものは時丸が得意としている武器、弓矢である。冬柴は代々、弓矢を扱う武士の家系なのだ。
吹春も武士の家系だが、こちらは刀剣を扱っている。吹春は皇帝直属の武士、冬柴は高位の大臣に仕える武士と役割が異なる。
ちなみに秋谷は大臣の中でも宰相を多く輩出している家系だ。本家の生まれである菊花と時丸は将来、主従の関係になることがほぼ決定している。
「話し中に悪いけど、これね。毎度あり」
優斎は小母さんから麻袋を受け取り、お礼を言ってからその場を離れた。