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水の中の霧 

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と内容に関する、記録の一篇。


あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。

 つぶらやくんは、雲と霧の違いについてちゃんと把握しているかな?


 ――うんうん、雲は地上から遠いところにでき、霧は地上に近いところにできる。場所の違いによって分けられるもので、実質的には同じものと。


 よーし、よく復習できてるじゃないか。

 たとえば山を遠くから見るとき、山肌に白いもやがかかっていたら、そいつは雲になる。

 だが山を実際に上っていて、そのもやの中を歩いている人にとっては霧あつかいだ。どちらも水蒸気が水の粒になって、たまっているという点は同じだ。

 じゃあさ、もし水中でこの手のもやが出てきたらどうなる?


 ――む? 水の中で水蒸気もくそもないだろ?


 そうだよね、本来なら考えられない現象だ。

 でも似たようなものが、思わぬ状況で発生したら? そいつはどのように認識すればいいんだろうね?

 私もそれに関して、不思議な話を聞いて少し考えるようになったんだ。その話、耳に入れておかないかい?



 むかしむかし。あるところに、たいそう酒好きの男がいた。

 酒が入ると、よく出る癖のことを俗に「〜上戸じょうご」というが、その男の場合は「泳ぎ上戸」とでもいうものだった。

 とにかく泳ぎたがる。そこが風呂だろうが川だろうが、海だろうが関係ない。火照った体を冷やしてくれる、あふれんばかりの水。そこへ沈み込んで、なにもかもさっぱりしたい衝動に駆られるんだ。

 ゆえに彼の河岸かしは、たいてい橋の近く。気持ちよくなってくると、おのずから服を脱ぎだして泳ぐ体勢に入るものだから、知る人にはちょっとした名物となっていた。


 その日も彼は一升ばかし飲み干したところで、したたかに酔い、もろ肌脱ぎになって店の外へとふらふら。同じ店内にいた客たちも「また始まった」と面白半分についていく。

 彼は近くの橋の欄干に乗っかると、酒で大いに膨れたおなかを、タヌキのようにぽんぽんと大きく叩いた。彼のかくし芸のひとつでもあり、その音は辺りいっぱいに響き渡る。飛び込み前の演出でもあった。

 やがて彼は両腕をぐっと伸ばしてそろえると、ぽーんと欄干から真下の川へ飛んだ。

 かなりの深さを持つ川だ。ざぶんと大きな音と水しぶきが立ち、客たちの中から「おお!」と歓声があがる。

 これまで何度もあったことだ。四半刻(約30分)ほど泳げば、満足して岸へあがってくるだろう。客たちはそう思っていた。

 ところが、一刻近くたっても彼は川から上がってこない。泳ぎが達者なことはみな知っていたが、これは万一のことが起きた恐れもある。

 すでにすっかり夜も更けた暗い川だ、自分から進んで入ろうとする者はなく、番所へ届け出がされて彼の捜索が行われる段になった。



 翌朝。彼は橋から少し離れた川の下流で見つかった。

 意識はなかったが、息はある。すぐさま気つけの処置がなされ、彼は目を覚ます。

 その体は、多くの土座衛門がそうであるようにまるまると太っていたが、彼自身は体に違和感を覚えていないらしい。

 飛び込んでから後、彼は川を下って泳いでいたのは確か。それからのことを彼はこう語ってくれた。



 川底に生える草を分け、泳ぎにかかっていると唐突に、目の前が白くなり始めた。

 視界などほぼない黒い水の中で、はっきりと見える白み。誰かが川の上から放り込んだごみか、もっと汚いものかと最初は思った。

 だがそれらは流れに逆らい、自分との距離をどんどん詰めてくる。どうにか方向を転換しようとしたときにはもはや遅く、彼は白いもやの中へ飛び込んでいたんだ。

「これはいかん」と彼はすぐさま体を浮き上がらせたが、そこには妙な光景が広がっていた。


 一面の霧。

 川に飛び込む際にはみじんの気配もなかった白いもやが、町全体を覆っている。視界も悪く、三尺(約1メートル)先も満足に見えないありさまだったとか。

 いや、そもそも町であるかどうかも疑わしい。見慣れた建物の並びは、ぼんやりとすら浮かんでおらず、確かにあるのは自分が浸り、いまも立ち泳ぎをしながら浮かんでいる、水の感触のみだった。

 とりあえず岸へあがろうと、川の端へ泳ぎ出す彼は、ふと背後で「ぱしゃん」と水のはねる音を聞く。頭を向けたが、やはり濃い霧は音を出した主の姿を隠してしまっていた。


 そうこうしているうちに、ぱしゃん、ぱしゃんと追いかけるように立っていく水音。

 助けがきたとは思わなかった。それだったらまず、声を張り上げて自分の安否を確認してくるもの。それがない以上は、こちらに存在がばれては都合が悪い連中だと察した。

 男は騒がしくなるのも構わず全力で泳ぐ。だが、後ろから流れに乗って泳ぎくる音は、みるみるうちに大きくなってきた。


「――連れて行ってよ」


 そうぽつりとつぶやく声が、耳朶をうつ。

 はっと振り向いたが、そこには誰もいない。代わりに、土踏まずに氷を踏んだかのような感触がある。それはたちまち体を駆け上り、男の鼻の奥をツンとさせた。

 それに気をとられ、動きを止めてしまった男に、次々と寒気が襲い掛かる。夏場の川だというのに凍える寸前まで追い詰められ、男はぶるぶる体を震わせた。

 鈍くなった手足の動きに加え、体がどんどん重くなり、川の中へ自然と沈んでいってしまう体。相変わらず変わらない白い水の中へ引き込まれ、気が付いたらここにいたらしいんだ。



 それから家に戻った男だが、酒を飲むことはなくなった。

 というのも食事はおろか、飲水さえもさほど必要としなくなったとのこと。彼が食事をする姿はめっきり減り、代わりに朝に夕に、街角で、建物の上で大きく腕を広げながら空気を吸い込む姿が見られたとか。

 そんな生活が命を縮めないはずがなく、彼は救助からふた月後、唐突に息を引き取ってしまう。だが、その葬儀に彼の遺体は存在しなかった。

 葬儀の準備を進めていた際に、膨らんでいた体が急速にしぼんでいくとともに、彼の体からは白い霧が出てきたんだ。延々と吐き続け、彼の体中を覆いつくしてしまう量が辺りに充満。それがすっかり晴れたとき、彼は自分のまとっていた服以外、痕跡を残さずにこの世から消えてしまったんだ。

 

 話の中で出てきた、連れて行ってほしいといった彼ら。それがあの霧の正体だったのだろうか?

 そうしたら、無事にこちらへやってきた彼らは、いまどこへいるのだろうかね?

 


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