第十章 混乱 場面一 アウグストゥスの死(四)
ティベリウスはちょっと吐息を洩らしたようだった。それから、ややあって苦笑する。
「断るにはあまりにも魅力的な話だ。お前の言う通りにしよう」
ティベリウスは家人を一人連れ、そのまま足早に奥へと消えた。浴室へ行ったのだろう。アントニアが歩み寄ってきて、ドゥルーススの肩に手を置く。
「よく話してくれたわ」
「あんな父を見たのは初めてです」
ドゥルーススは言い、親衛隊兵たちを振り返った。
「父は、ずっとあんな調子だったのか」
「はい」
年長らしい男が姿勢を正し、代表して答えた。
「十日間以上、ほとんど眠っておられないはずです」
ドゥルーススは目を瞠る。
「眠っていない?」
「ご遺体の移動がほとんど夜間に行われたことはご存知でしょう。最高司令官殿は、それにずっと徒歩で付き添っていました。昼の間、ご遺体は各都市の集会所や議事堂に安置され、市民たちの弔問を受けていました。その際にも、司令官殿はご遺体からほとんど離れませんでしたから。ここ数日間は、ほとんど食事も摂っておられません。食欲がないと仰って」
「………」
アウグストゥスの死自体、父には相当の緊張を強いるものであったことは容易に想像がつく。それに加えて、その後がそんな状態であったとは。よく考えてみれば、礼儀を重んじ、責任感の強いあの父のことだ。それは想像できなくもなかったはずだ。せめてゲルマニクスがいてくれれば、ドゥルーススとて父の許に駆けつけることも出来ただろうに。
親衛隊兵たちは退出した。アントニアは子供たちを下がらせ、ドゥルーススの背に手を触れた。
「あなたが責任を感じることはないわ。あなたは立派に留守を守ったでしょう? 神祇官殿もあなたを褒めていたの。それを耳にするのは、ティベリウスには何よりの喜びのはずよ」
ドゥルーススは苦笑する。
「ぼくは指示された通りにやっただけです。―――すみません、お気を遣わせて」
「実は梨を冷やしてあるの。あの人の好物なのよ。知っていて?」
重大な打ち明け話をするように言って、アントニアは頬笑んだ。
「そうなんですか」
初耳だった。父が信頼をよせる義叔母は、快活に言った。
「少しさっぱりしたものを用意するわね。あの人の代わりには誰もなれないけど、お互いできることをしましょう。その方が建設的だわ」
「はい。お願いします」
こんな時は、案外女性の方が頼りになる。ドゥルーススは頷いた。