第二十章 シジフォス―――苦行 場面二 法学者ネルウァ(一)
ヒスパニアからの使者が訪れてから数日が過ぎた夜、元老院議員で法学者のコッケイウス・ネルウァがティベリウスの邸を訪れた。彼から法律を学んでいたドゥルーススが死んで以来、初めてのことだった。ティベリウスは報告書を繰る手を止め、私室に案内されてきたこの男を迎えた。ネルウァは部屋に入ると、丁寧にお辞儀をした。
「夜分に申し訳ありません」
ティベリウスは立ち上がり、男の手を取った。
「我が邸にあなたをお迎えするのも久しぶりだ」
「そうですね。長らくご無沙汰をしてしまいました」
ネルウァは相変わらず穏やかな頬笑みを湛えていた。ティベリウスはかつて、この男を自在に流れる水のようだ、と思ったが、その印象は今も変わらない。四年前、現職の執政官が病の為に職務を継続できなくなったとき、ティベリウスはその補欠執政官としてこの男を推薦した。そして「執政官格」となったネルウァを、二年前には首都の水道庁長官に就任させている。ティベリウスよりも七、八歳は年少だが、どこか恬淡として目立たないこの男は、しかし政務官としても学者としても極めて有能だ。師から引き継いだ法律学校も、この男の下で日々活況を呈しているという。彼の師はラベオという高名な法学者だが、法律家らしく潔癖で融通がきかないところがあり、官職も法務官で終わっている。
ティベリウスは椅子を勧めたが、ネルウァは最初、それを断った。
「こんな時間に長居をしても申し訳ないので」
「いや、わたしもちょうどあなたに相談がある。よくおいで下さった」
「それなら、お言葉に甘えて掛けさせていただきましょうか。「押しかけ法律顧問」ですね」
ネルウァは椅子に掛けながら、軽い口調で言った。ティベリウスはよくこの男を、「わたしの法律顧問」と呼んでいたのだ。
「あなたの助言はいつもとても有益だ」
「嬉しいお言葉です。先日のあなたの演説は見事でした。神々に祈念するのが「人間と神々の法を理解する精神」であるような第一人者を持った我々は、自分たちの幸運を感謝すべきでしょう。法律学校では、早速生徒たちに紹介しましたよ」
ティベリウスは苦笑する。
「あれは不評だったと聞くが。優れた人間ほど多くの名誉を求めるものであり、死後の名声を軽蔑することは、「徳」そのものを軽蔑することに他ならない。わたしの言葉は、低劣な精神の表れだと。あるいはもっと簡単に、自分に自信がないから名誉に耐えられないのだとか、謙虚を装った高慢さだとか」
ネルウァは運ばれてきたワインの銀製のカップを、乾杯するように軽く掲げて言った。
「言わせておけばいい。「誹謗中傷に怯まない」のがあなたの信条でしょう」
それも演説にあった言葉だ。
「まさか、一言一句覚えておられるわけでもあるまい?」
「大筋ですが。法律とは、何よりも言葉だ。言葉に関心のない法律家はいませんよ。好きな言葉と嫌いな言葉は忘れません」