第二十章 シジフォス―――苦行 場面一 忘却の河(一)
神々よ、どうかわたしに、この国を愛する力を下さい―――
一人息子を失い、今やティベリウスの生を支えるのは、アウグストゥスからローマを引き継いだ貴族の男としての責任感しかなかった。ティベリウスは責務を果たし続けながら、水面下である計画を進めていた。
声がする―――
『父上』
ドゥルースス。お前か?
ティベリウスは周囲を見回した。ああ、やはりそうだ。いつの間にかすぐ傍らにいたドゥルーススは手にガウンを持ち、頬笑んでいる。
『まだ仕事をなさっているんですか』
ドゥルーススは、ガウンをティベリウスの背に掛けながら言った。
『そろそろお休みになって下さい。身体に障ります』
こうしている方がいいのだ、わたしは。
ドゥルーススは申し訳なさそうな表情になる。
『すみません、お役に立てなくて』
そうではない。お前が詫びる事など何一つない。ただ、わたしが今平静でいられるのは、自分の責務を果たしているときだけなのだ。仕事に没頭していれば、忘れていられる。阿諛と追従に落ち込んだ元老院のことも、分を弁えない女たちのことも、お前の―――
言いかけて、ティベリウスは言葉を切った。ドゥルーススは静かに続ける。
『ぼくのことも?』
ドゥルースス。
ティベリウスは息子を見つめる。
ああ―――ドゥルースス。忘れていられる。それがほんの束の間でも。お前が、もういないことを―――
『父上………』
ドゥルーススは青ざめた、悲しげな表情を残して、ふっとかき消えた。
行くな!
魂が引きちぎられるように痛い。だが、ティベリウスはすぐに思い返す。
もう、呼んではいけない。
この頃、よくお前の夢を見る。あれから、どれほどの時間が過ぎたのだろう。ドゥルースス、お前の魂は、まだ安らがぬか? ドゥルースス。眠ってくれ、安らかに。お前を死に追いやった父のことなど忘れて、辛かった事など全て忘れて、幸せでいてくれ。お前の人生は、辛い事や苦しい事の連続であったろう。もう、忘れてくれ。この世界のことなど。忘却の河を、お前は渡ったはずではないのか?
わたしのことなど忘れるがいい、ドゥルースス。これはわたしに下された罰なのだから。神々はわたしに呪いをかけた。老齢を言い訳に、まだ若いお前に性急に自分の責務を譲り渡そうとしたわたしを、ユピテル神は許さなかったのだ。いや―――怒っているのは、アウグストゥスかもしれない。祖霊かもしれない。生き続ける事こそが、わたしに課せられた罰にほかならない。永劫の苦しみ、永遠の孤独。
ああ、ローマよ。神々の御心に宿る永遠の都。光り輝く黄金の都。お前は何と貪欲なことか! わたしは一体、どれだけのものをお前に捧げてきた事だろう。どれだけのものを犠牲にしてきた事だろう。わたしだけではない。どれだけ多くの血が、汗と涙が、お前のために流されてきただろう。
それがローマだ。そしてローマこそわたしの使命、わたしの宿命だ。
ならば、わたしの生き血を、わたしの魂を啜って咲き誇るがいい、呪わしい黄金の都よ!
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