第十八章 裏切り 場面五 父親(一)
「失礼します」
ドゥルーススが部屋に入ると、ティベリウスは読んでいた書類を置き、掛けていた椅子から立ち上がった。ドゥルーススは内心緊張を覚えながら、黙ってその前に立つ。父の表情は普段と同じで、怒りも驚きも感じられなかった。青灰色の鋭い眼差しで、じっとドゥルーススを見据えた。
「来なさい」
ティベリウスは短く言って、そのまま広い部屋を横切り、中庭へ向かった。ドゥルーススはその後に従う。日はとっくに落ちており、かがり火が夜の庭を照らしていた。遣り水の音が微かに耳に聞こえ、夏とはいえ涼しささえ感じられる。
ドゥルーススは父の背を見つめながら、黙って歩いた。こんな風に庭を歩くなど、何年ぶりだろう。ゲルマニクスが死んでから、四年近くが過ぎた。父の唯一の後継者になってから、ドゥルーススはとにかく必死だった。どう日々を送ってきたのか咄嗟に思い出せないほどだ。
「この頃、お前が少し疲れているようだとアントニアが言っていた」
ティベリウスは歩きながら言った。
「毎日遅くに戻ってきて、ろくに眠っていないようだと。邸ではあまり食事も摂らないそうだな。付き合いもあるだろうが」
「済みません。少し………色々と立て込んでいて。ご心配をおかけしました」
謝ると、ティベリウスは意外なことに少し笑ったようだった。
「アントニアもすっかり元気になった。小言が出るぐらいにな」
「………」
ドゥルーススは苦笑する。
「もう、四年になるな」
「はい―――」
いつから、とは、言わなかった。吐息のように応え、ドゥルーススは、ただゲルマニクスを思った。
兄弟のように育ってきた君が逝ってから、四年もの時間が過ぎたのだ。短かったようでもあり、果てしなく長かったような気もする。ああ、君がいてくれたら。何故四年も経った今になって、君がこんなに懐かしいのだろう。
ティベリウスは不意に立ち止まり、ドゥルーススを見た。ドゥルーススも歩みを止める。暗がりで、父の顔はよく見えない。ドゥルーススが黙っていると、ティベリウスは再び背を向けて歩き出す。
水音が聞こえる。葉を渡る風の音、敷石を踏む微かな足音。
静かだ………
父は敷石の上をゆっくりと進んでゆく。ドゥルーススはいつセイヤヌスの事を言い出されるのだろうかと緊張しながら、やはり黙ってその後に続いた。父が何を考えて黙っているのか、ドゥルーススには判らなかった。ドゥルーススの方から言い出すのを待っているのだろうか。
父の肩の向こうに、下弦の月が見える。ずっと見つめてきた父の背は、六十歳を越えた今でもがっしりとして逞しい。一体いつになれば、この背に追いつけるのだろう。




