第十八章 裏切り 場面二 リウィッラ(三)
「ドゥルースス」
妻の声に、ドゥルーススはまどろみから現実に引き戻された。
「ん」
「ゲメルスに、婚約の話があるの」
ドゥルーススはまだ半分眠った意識の中で苦笑する。
「まだ早いよ」
ティベリウス・ゲメルスとゲルマニクス・ゲメルスは、まだ三歳なのだ。
「レントゥルス・ガエトゥリクスの娘よ。家柄も人柄も、何をとっても申し分ないわ。義父上も好意をお持ちでしょう」
「父子共に有能な方々だからね」
ドゥルーススは言った。レントゥルス・ガエトゥリクスは、ドゥルーススがパンノニア軍団の暴動鎮圧の際に随行したグナエウス・コルネリウス・レントゥルスの親戚にあたる。父のコッスス・コルネリウス・レントゥルスは、執政官を務め、その後アフリカへ知事として赴任した人物だ。その時砂漠の民ガエトゥリ族を撃退した功績で、「ガエトゥリクス」を名乗る事を許されている。レントゥルス・ガエトゥリクスはその息子だ。確かに血統、人格、何をとっても申し分ないし、ティベリウスにも信頼されている。しかも、セイヤヌスの親しい友人の一人だ。
「あなたから義父上に話してみて」
ドゥルーススは少し間をおいて言った。
「考えておくよ」
リウィッラはその答えには満足しなかった。少し身体を起こし、ドゥルーススの胸に軽くキスを落とした。
「ドゥルースス、あの子たちには味方になってくれる人が一人でも多く必要なのよ」
諭すような口調だ。敵とか味方とか、どうしてそういう風にしか考えられないのだろう。ドゥルーススは正直、これ以上この話題に関わりたくはなかった。下手をすると言い争いになる。ドゥルーススは妻の髪にキスして言った。
「考えておくよ。………今夜はもう寝よう」
「ドゥルースス」
リウィッラは焦れたように、ドゥルーススの手を自分の乳房に導いた。ドゥルーススは疲れていた。既に一度愛を交わしている。本当ならこのまま眠りに落ちてしまいたい。だが、求められるままに身体を重ねた。女は貪欲だ。もっと愛して欲しい、もっと自分を見て欲しい、もっと大切にして欲しい、もっと―――ドゥルーススは、時折その底なしの欲望が恐ろしくなる。女の身体は、女の心は、こんなにも貪欲なものなのだろうか。
眠りから覚めると、リウィッラは傍らにいなかった。半分淋しく、半分安堵する思いで、ドゥルーススはぼんやりと高い天井を眺めた。
『可哀想な人』
果てた後、だっただろうか。それとも、夢だったのだろうか。
軽蔑と憐れみの入り混じったような妻の声が、耳の奥にかすかに残っている。
かわいそうな、ひと………
ドゥルーススは眼を閉じた。疲労が、ドゥルーススを再び泥のような眠りへと沈みこませようとしていた。意識が途切れる寸前、心の奥深くで、小さな声が呟いた。
ああ―――ぼくは可哀想な男だ。




