第十六章 ピソ裁判 場面三 父と息子(四)
ドゥルーススは目立たないように邸に戻ろうとしたが、タイミングが悪かった。ドゥルーススが邸に足を踏み入れるのとほぼ同時に、奥から他ならぬティベリウスとアウグスタが出てきたのだ。ドゥルーススはぎょっとしたが、今更逃げ隠れも出来ず、二人に歩み寄った。
「お祖母様」
アウグスタは七十七歳になっている。それでも言葉も身体もまだしっかりしていた。ティベリウスに手を引かれ、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。ドゥルーススは祖母の手を取り、口付けた。
「ご無沙汰してしまいました」
「ドゥルースス」
アウグスタは皺の刻まれた顔に頬笑みを浮かべる。
「どこへお出かけ?」
「ちょっと友人の邸に寄っていました」
「そう」
特にこだわる様子もなく、アウグスタは息子に視線を向けた。ティベリウスは無言で再び門へ向かって歩き出す。ドゥルーススも後に従った。門の外でアウグスタは輿に乗り込んだ。
「ドゥルースス」
「はい」
「またリウィッラと子供たちを連れてきておくれ」
ドゥルーススは微笑した。
「すみません、本当にご無沙汰になってしまって。ご都合さえよければ、明日にでも伺います」
「明日は少し来客があるわ。明後日ではどう」
「判りました。是非」
アウグスタは満足そうに頷き、それから息子に向かって言った。
「では、後は頼みますよ」
「判りました」
ティベリウスは淡々と応じる。アウグスタも無表情にふいと視線を逸らし、輿はゆっくりと道を下っていった。―――とはいえ、今はアウグスタが住んでいる旧アウグストゥス邸は、ここからは目と鼻の先なのだが。
ティベリウスは無言で踵を返した。ドゥルーススも続いて邸内に入る。
「お祖母様は何を?」
「プランキナを罪に問わないようにと」
ティベリウスは視線を向けずに答えた。父は明らかに苛立っている。ドゥルーススはどう応じていいのか判らなかった。そもそも、プランキナはピソと違って公人ではない。問われるとすれば毒物や黒魔術の行使だが、それは恐らく立証は出来ないだろう。ただティベリウスにすれば、夫が裁かれている最中に、アウグスタに縋って自分だけ罪を逃れようとしたプランキナも、裁判に口を出すアウグスタも腹立たしく思われたに違いない。父が出しゃばる女を嫌っているのは、見ていれば何となく判る。
そういえば、ピソは息子たちのことは口にしても、プランキナの事は一言も口にしなかった。ピソは知っているのだろうか。妻が、アウグスタに縋って、罪を免れようとしている事を。恐らくそれを知ったとしても、ピソは何も言いはしないだろうと思う。ひょっとすると、ピソがそうするよう指示したのかもしれない。ドゥルーススは改めて父の友人を思い、何とも重苦しい気持ちになった。