第十五章 ゲルマニクス神話 場面四 ウィプサーニア(七)
「アントニア………」
かすかな呟きに、アントニアは古い友達の顔を見た。かつての義姉の頬を、涙が静かに伝い落ちていた。慰めの言葉もなく、ただアントニアの手を握り、優しく髪を撫でながら泣いていた。慎ましいウィプサーニア。ティベリウスがただ一人愛した女性。沈黙のままに愛し合っていたような二人だった。いつのことだったか、ドゥルーススが生きていた頃、笑いながらアントニアに言った。あの兄が、例の重々しい顔つきで「相談がある」と言うから何事かと思えば、妻の誕生日に贈り物をしたいが、何を贈れば喜ぶのか判らない、と打ち明けられ、笑いを抑えるのに苦労したと。何かをねだることもなければ、衣装や宝石をあれこれと選んで買ってくることもない。下手をすると存在を忘れるほど物静かで、無欲で慎ましいそうだ、と夫は言い、君とは全然違うな、と付け加えて笑った。
幸福だった。みんな若かった。誰も、あんな形での互いの別れなど、想像さえしていなかったのだ。もしもあのまま年をとってゆけていたなら―――
ウィプサーニア。わたしの大切な女友達。あなたなら、きっとあの人を信じてくれる。だからこそ、アントニアは口にすることが出来た。「あの人を恨んでしまう」―――と。まだ、ティベリウスを愛しているだろうか。ずっと気になっていても、アントニアは、それをこの友人に尋ねることはだけはどうしてもできなかった。新しい夫と子供を持つ身の、この大切な友達に。
多分あなたは、わたしの気持ちを判ってくれるでしょう………?
ウィプサーニアは、それからしばらくの間、じっと傍らに付き添っていた。アントニアは、泣き疲れて、そしてどこか奇妙な安心感からぼんやりしていた。ふと視線が出会い、アントニアは思考もまとまらないままに口を開いた。
「もう―――あの子には会えないのね」
ぽつりと言葉が洩れる。少し間があった。ウィプサーニアは小さく言う。
「そうね………」
アントニアは眼を閉じた。もう、会えない。あの子の明るい笑顔も、朗らかな声も、もうこの世では出会えない。それが淋しくて、悲しくて―――
ウィプサーニアはアントニアを撫でた。
「ウィプサーニア」
アントニアは友人を見つめる。
「また、来て下さる………?」
再び、短い沈黙が降りる。
「ええ。また来るわ」
ウィプサーニアは答えた。それから、少し間をおいて言った。
「ドゥルーススを呼んで下さらない?」
アントニアは頬笑む。
「勿論よ」
アントニアは控えている使用人に、ドゥルーススを呼ぶように言った。ほどなく、ドゥルーススが部屋に入ってくる。喪服を身につけたドゥルーススは、寝台に歩み寄り、椅子から立ち上がった母と抱擁を交わした。
「よく来て下さいました」
ドゥルーススが言うと、ウィプサーニアは暖かな声で、「わたしこそ、アントニアにとても会いたかったのよ」と応じた。それからドゥルーススは寝台に横たわったままのアントニアの額に軽く口付ける。