北の森が育てたハチミツ
クオンは狩りの名人と聞いていたが、動物を狩るだけでなく野山の恵みを採る名人でもあった。
どう見ても食べられないような木の芽や、切り立った崖の岩についたキノコなども迷うことなく探り当て、カゴいっぱいにして帰るのだ。
アユムはクオンに連れられ何度か森や山に入るようになっていた。
アユムはついていくだけで精一杯だったが、クオンに教わりながら着いて行くと、森や山が宝箱のように見えてくるのが好きだった。
夏の暑さがようやく陰りを見せ始める頃、ある日アユムはクオンに連れられて、初めて北の森へ行くことになった。
北の森は別名「オオカミ様の森」と呼ばれていた。
北の森にはシカのような獣が寄り付かないため、良質な木材が手に入りやすく、村の貴重な収入源となっているようだった。
だが年に数回、限られた木こりが伐採をするほか立ち入ろうとするものはほとんどいない。ほかの森と比べ、高くて太い樹が多く鬱蒼としているため、じめじめとして陰気な印象を与える森だった。
北の森に入る前、クオンが深々と頭を下げていたのを見て、アユムも慌ててそれに倣う。クオンについてしばらく歩くと、目的のそれは見つかった。
遠くから見ると、木の箱が積み重なっているようにしか見えない。それが木の陰にひっそりと置かれていた。
(これは何だろう?)
アユムが近寄ろうとすると、クオンに肩を掴まれ引き戻された。広げた手を耳に当てている。
アユムも同じようにして耳を澄ますと、「プーン」という羽音が聞こえてきた。
「ミツバチ」だ。
アユムは恐怖で思わず声を上げそうになったがその口を手で塞がれた。
「刺激するな」
クオンはもう片方の手を前に出す。するとそこに1匹のミツバチが止まった。
恐る恐る見てみると、小さな体にふわふわとした毛が生えているのがわかる。刺す様子は見せず、クオンの手で休む様子は可愛らしく思えるほどだ。
ミツバチが離れると、クオンはすべすべとした厚手のカッパのようなものを2人分取り出した。顔がかかる正面に、網がかかった帽子も一緒だ。
差し出されるまま来てみると、通気性が悪いため中はひどくむしむしとして暑かった。
防護服を着て木箱にゆっくりと近づくにつれて、どんどんとミツバチの数が増えていくのが分かった。
可愛らしいとさえ思ったミツバチの羽音は、数を増すたびに重低音が増していき、ぶんぶんと鈍い音を立てるようになる。
巣箱を守ろうと、沢山のミツバチが木箱にはとりついており、それが徐々にこちらへと飛びついてくるのだ。
(怖い)
アユムは泣き出しそうになり立ち止まってしまった。ところがクオンはこっちの様子を気にもせず、ずんずんと前へと進んでいく。
(呆れられてしまっただろうか)
そう思うとますますアユムは落ち込むのだが、ミツバチが群がって最早黒い服を着ているようになっているクオンを見ると、どうしても足が進まず離れたところで見るのが精いっぱいだった。
そうこうしている間も、クオンは巣に着くやいなや、箱を解体していく。
遠目からではよく見えなかったが、側面から釘を抜いたり、上から風を送ってミツバチを追い出してから箱を分解しているようだった。
しばらくするとクオンは取り外した箱の一部を持ってきてくれた。
びくびくとミツバチがいないことを確認しながら中を見てみると、そこには小さな小部屋が集まってできた何層もの巣があった。巣は中をびっしりと埋めていて、この中一つひとつにミツバチがいるのかと思うと、正直気持ちが悪かった。
クオンは長いナイフを取り出すと、巣を箱から剥がしとった。取り出した巣からはとろりとした蜜が垂れていて、持たせてもらうとずっしりと重かった。
クオンは次々に巣を剥がしとり、素早くガラスの瓶に入れていった。アユムは手に着いた蜜をこっそりと舐めてみた。あの日初めて舐めたものと同じ、豊かな甘みと香りが広がった。
そうしている間にもクオンは素早く巣箱を元の場所に戻し、移動を開始していた。だが巣箱は5段あるうち上2つ分しかとっておらず、まだ残っている。
「巣箱はまだ残っているのに、どうしてそのままにしておくんですか?」
(勿体ない)
思わずそう思ったアユムは立ち去ろうとするクオンを引き留めようとした。
「あれは、ミツバチの分だ」
しかしクオンはそう言ったきり、歩みを止めようとしない。アユムは後ろ髪を引かれる思いで何度か巣箱を見ながらついていくのだった。
それから3カ所ほど巣箱を見回り、蜜を回収していった。しかし中にはミツバチが1匹もいない巣もあったのでアユムはがっかりしたが、クオンは「そんなこともある」と言ってちっとも気にしていないようだった。
家に戻ると、クオンとアユムは2人で採蜜作業をした。
ハチの巣は吊るしておくと蜜が垂れてくるので、それをガラス瓶に回収して小瓶に分けていく。
無理やり絞るとゴミが入るらしく、最後に絞りきるときは布で濾しながら慎重に行った。
絞った後の巣は捨ててしまうのかと思いきや、火にかけてロウソクの材料にするらしかった。蜜蝋はほかにも、春に巣箱に塗っておけば新しいミツバチが寄ってきやすいのだと教えてくれた。
蜜が集まるのを待っている間、アユムはふと不思議に思ったことを聞いてみた。
「何故北の森に少ししか巣箱を置かないの? 蜜を集めたいなら、花がたくさんあるほかの森に置けばいいのに」
「あの蜜はオオカミ様に守られたあの森だからできるものだ」
そうは言うものの、納得がいかない様子のアユムを見て、クオンは口元に指を当て少し考えてから続けて言った。
「樹に咲くほんの小さな花を含め、森中からミツバチは蜜を集める。蜜を狙う外敵の少ないあの森でひっそりと、たくさんの花から少しずつ分けてもらうからあの蜜ができるんだ」
クオンはもう聞くなとばかりにアユムの頭を撫でた。
結局、ハチミツは全部で20㎏ほど採れたが小さな小瓶に移して村の皆に配ると、クオンとアユムの元には数瓶しか残らず、アユムはため息をこぼすのだった。
その日の終わり、アユムは手で口元と鼻を覆うようにして寝ていた。手に着いた蜜の香りは一日中消えることがなく、そうするといつまでも幸せな気分でいることができたからだ。