初めての魔法
クオンは寡黙な男だった。
何か言葉を発するにしても、必要なことだけをただ端的に寄越してそれ以上何も言わない。
そのためアユムは2人きりでいるときは終始気まずい思いをすることになった。クオンの家は家主を表しているかのように、必要最低限のものしかなかった。
(家に帰りたい)
見たいテレビもゲームさえない。何もすることがなくてとにかく退屈だった。
そんなアユムを救ってくれたのが「魔法」と「レイ」だった。
異世界に来て初めて魔法を目にしたのは、アユムがクオンの家に来た最初の夜のことだった。
ヨミの家に行った後、アユムは言われるがまま、まずはマリの宿屋で夕飯を食べ、そのままクオンの家について行った。
気づいたときにはベッドの上。いま自分に何が起きているのかわからず、アユムは不安で眠れずにいた。
ここでは何もかもが馴染めないことばかりだ。食べ慣れない食事の中には、酸っぱくてとても口に入れられないようなものもあった。
だからアユムは顔をしかめてそれを避けていたら、クオンが奪うようにとってしまい、まだ食べていないものまで全て食べてしまった。
お腹は空いているのに誰も助けてくれない。アユムはその理不尽さに苛立ち、ますます意固地になってしまっていた。
家に着くなりクオンはすぐにベッドに就いてしまったので、部屋は暗くて何かすることもできない。アユムはガサガサとした枕に顔を押し付けながら、昨日まであって当たり前だった日常を思い出していた。
アユムの頭の中には両親や友だちの顔が次々思い浮かび、その度に「もう会えない」と言い放ったヨミの顔と声が頭の中でよみがえり、絶望に塗り変えられていくのだった。
アユムがぐすぐすと鼻を鳴らしていると、隣りで寝ていたクオンがむくりと起き上がる気配を感じた。
(怒られる)
アユムが身を強張らせていると、部屋が何かに明るく照らされたのがわかった。
「こっちを見てくれ」
その言葉につられるように枕から顔を離してクオンの方を向くと、その手には暖かな火が灯されていた。
「火の魔法だ」
思わずアユムはつぶやいていた。
起きてすぐに試してできなかった魔法。サクラが灯していた、美しく燃えていた青い炎とはまた違い、クオンの火はともすれば消えそうにゆらゆらと揺れながら、周囲を赤く、優しく照らしているのだった。
クオンは火を手に宿したまま部屋を出て行ったかと思うと、何やらごそごそと物音をさせて部屋へ戻ってきた。
その手にはパンと薄く切られた干し肉、それから琥珀色をした液体の入った小さな壺があった。
クオンは干し肉を左手でつまむようにして持つと、右手にともした火でチリチリと炙り、パンの上に乗せた。
部屋には肉の焼ける香ばしい匂いが漂い、アユムは思わず身を乗り出した。クオンはそんなアユムを気にもかけない様子で、壺からトロリとした琥珀色の液体をすくい取ってかけた。
「食え」
最初は縮こまっていたアユムもその香りには逆らえず、かぶりつくようにして食べた。
琥珀色をした液体はハチミツだったようで、その甘みが肉の塩気を引き立てて最高にうまい。アユムは気がついたときにはすべて平らげてしまっていた。
その様子を見たクオンは残っていたハチミツを瓶ごと差し出してきた。
「これは山で採れたものだ。舐めてみろ」
受け取った瓶を覗き込むと、そこには琥珀色の液体がある。しかしさっき食べたときも感じたのだが、記憶にあるハチミツとどこかが違う気がした。アユムは指を突っ込んでそのまま舐めてみた。
クオンのハチミツは、いままで食べたことがあるものとはまるで別物だった。
さらりとしていながら優しい甘みが口いっぱいに広がる。かと思えば、口の中に嗅いだことのないような華やかな香りが開く。
それもただ1種類だけでなく、口の中で噛みしめていると幾層にも幾層にも開いていくのだ。アユムは思わず笑顔になった。
ふと視線を感じてクオンを見ると、こちらをじっと見つめていることに気がついた。その顔はこれまでと同じ無表情な顔だ。しかし魔法の火に照らされたその顔はどこか優しそうに見えた。
「ねぇおじさん、それどうやってやるの?」
アユムがおずおずと尋ねると、クオンは驚いたように少し目を見開き、手元の火を見ながら言った。
「これは誰でもできるものだ」
クオンは口元に指を当てしばらく考えていたかと思うと言った。
「手に意識を向け、周りにある魔力を集める。そして熱く燃える火をイメージするんだ」
ぽつりぽつりとつぶやくようにクオンは教えてくれた。アユムは教えられたように手のひらを見つめ、必死に火をイメージしたが一向に火が灯る気配はない。
「…子どもの頃、父親が教えてくれた言葉がある。目をつむり、唱えてみろ。
『かしこみかしこみももうす。我らを見守る精霊よ、いまこの手に集まりて、我らを照らす火とならん』」
クオンの声は小さく、小さな火が頼りなく揺れるこの部屋の中では、ともすれば背後に迫る闇の中に消え入りそうなものだった。
アユムは目をつむったまますくい取るように声を拾い、復唱した。何度か唱える内に、自分の周りに温かい何かを感じ、それが手のひらに集まっていくのを感じた。
「かしこみかしこみももうす。我らを見守る精霊よ、いまこの手に集まりて、我らを照らす火とならん」
おまじないを唱え終わった後手のひらを見ると、そこには小さな火が灯されていた。2つの火が部屋を照らす。
どちらも小さな火ではあったが、アユムはその火が残っていたわずかな闇さえも消し去ってくれたように感じていた。
「おじさん、これからも僕に、もっといろいろなことを教えてください。よろしくお願いします」
アユムは頭を下げてそう言った。しかし返事がいつまでも聞こえてこない。ちらりと伺うようにアユムが頭を上げると、
「クオンだ。おじさんはやめてくれ」
そう言ったクオンの顔は照らされた火のせいか、赤く染まって照れているように見えて思わずアユムは笑ってしまった。
その日はアユムが初めて魔法を使った日で、クオンと過ごした最初の忘れられない日となった。
※
「レイ」はアユムと同い年の10歳の少年で、マリの息子だ。
レイはあまり多くを語らない。だがレイには村の子どもの誰もが一目置いているようで、彼の発言には皆が耳を傾けた。
レイは気遣いも上手く、誰かが独りでいるといつの間にか傍にはレイがいた。明るい金の髪が周囲を照らすように、レイがいると空気が柔らかくなるのだ。
しかし出会ったばかりの頃、アユムはレイのことが苦手だった。誰にでも優しく笑いかけるレイが、何故かアユムには違っていたのだ。
アユムとレイが出会ったのは、アユムがこの世界に来た翌日のことだ。クオンは料理をほとんどしない男だったから、2人は朝と夜の2回、マリの宿屋へ行き食事をとり、大抵は昼の弁当まで買って帰っていた。
「お前、一体何なんだよ?」
2人が出会ったとき、おっかなびっくり挨拶をしたアユムに対し、レイは開口一番そう言った。
するとすぐにマリが飛んできてレイに拳骨を加えたのでアユムは訳が分からないままレイは引っ込んでいってしまった。
去り際、レイが言った「迷い人のくせに」という言葉が頭に残る。
改めて周りを見渡せば、カズイシ村には様々な髪の色をした村人がいたが、金髪は多くても黒髪の者は誰もいなかった。
目鼻顔立ちも明らかに違う。
手元を見れば何度も食べたことのあるサンドイッチも、パサパサしてるし味付けも変で全然美味しくない。アユムはますます孤独感を募らせるのだった。
その後もレイとは毎日顔を合わせているのにロクな会話もなく、近所の子と遊ぶでもないぎくしゃくとした日を過ごしていた。
しかしそんな疎外感を払拭してくれたのもレイだった。
クオンは日中家を空け、山に入っていることが多かった。その日もアユムは一人、特にすることもないので魔法の練習をしていた。
初めて火の魔法を成功させてからというものアユムは毎日練習しているのだが、火はマッチ程度の大きさにしかならず、それもすぐに消えてしまっていた。
「かしこみかしもみももうす」
意識を集中させようと、教えられたおまじないを唱えていた。
「なぁ、お前もソレ知ってんの?」
背後から声がしたので驚いて振り返ると、そこには気まずそうな顔をしたレイがいた。
「母ちゃんにお前がずっと一人でいるから、一緒に飯でも食ってやれって言われたからさ」
レイは頬をかきながら言った。
「それよりもさっきお前が言っていたおまじない、何でお前も知ってんの?」
「クオンが教えてくれたんだ。僕まだ魔法がうまく使えなくて」
アユムがそう言うと、レイは口元に指を当て、何かを少し考えていたかと思うとにやりと笑って言った。
「それ、子どもが唱えるようなもんだぜ? だっせ」
「見てろよ」レイはそう言うと近くにあった枝も向かって手を振り下ろした。「ヒュッ」という風切り音とともに、枝が真っ二つになる。
「すごい…すごいよすごい! それも魔法なの?」
アユムはいま見たことが信じられず、レイに思わず詰め寄った。
「あ、あぁもちろん。でもこんなの誰でもできるぜ? クオンには何も教わらなかったのか?」
急に近寄ってきたアユムに戸惑いながらもレイは胸を張って答えた。
「うん、クオンには初めて会った日に、このおまじないと火の魔法を教えてもらっただけなんだ。だけど何度やってもこれ以上大きくできなくて。
だからやり方を聞いたんだけど『あとは練習あるのみだ』としか言ってくれないんだ」
レイは眉をしかめしばらく考えていたかと思うと、ふいに笑顔になって言った。
「そっか、クオンも忙しいから仕方ないよな。よし、じゃあ俺がお前にわかんないことは教えてやるよ」
レイはそう言って手を差し伸べた。
「ありがとう、レイ。よろしくお願いします」
アユムは満面の笑みを浮かべて手を握り返した。
「いいってそんなの。それよりも、『お願いします』じゃなくて『よろしく』でいいから」
「わかった、よろしくレイ。それと僕はお前じゃなくて『アユム』だよ」
アユムがわざとらしく怒ったように言うと、レイは笑って頷いた。
「いつか、空も飛べるような魔法を使いたいな」
するとレイは目を丸くしてから息を吹きだして笑った。
「空を飛ぶって、おとぎ話じゃあるまいし、できるわけないじゃないか」
そう言っていつまでも笑い続けるレイに納得がいかず、ふてくれたアユムにレイは何度も謝ることになった。
それから二人はいつも一緒にいるようになった。レイには宿の手伝いや弟たちの世話もあったので、初めは日中の限られた時間しか会えずにいたが、アユムがレイの仕事を手伝うようになってからはいつも一緒だ。
マリの宿屋は宿屋とは名ばかりで、辺境にあるカズイシ村では宿泊客はほとんどいない。
そのため宿屋は主に村の食堂として成り立っている。マリの料理は美味く、初めは馴染みのない味に辟易していたアユムも、次第に大好物とまで言えるものも増えていった。