Chapter 1 ざわめき
「これからの人生を俺に捧げてほしい」
普段口数も少なく、愛の言葉なんて滅多に言うこともない男が、珍しく緊張した面持ちで言ったこの台詞で私の人生は大きく変わった。
これまで生きてきた中で抱えてきた大事なものと、目の前の男を天秤にかけた時に、わずかに傾いたのは男の方だった。
それから今日まで、私は彼の言う通りに人生を捧げてきたと思う。
Chapter1
「篠田さん、会議の資料目を通してもらえますか?」
「社長にアポをどうしても明日取りたいと言われたのですが、対応お願い出来ますか?」
日本でも有数の製薬会社である伊達製薬秘書室は、今日も相変わらずの忙しさだ。社長付きの秘書である篠田美雨は、複数人いる秘書を束ねる立場でもある。
この会社は社長をはじめとする役員全員に専属の秘書がおり、秘書だけでも20名近く在籍している。その中でも美雨は、英語が堪能で仕事も出来、代替わりをしたばかりの若い社長を陰で支える秘書室の柱であった。
「先輩、最近ずっと残業ですけど、大丈夫ですか?」
「ちょっと疲れてるけど、今の取り引きがまとまったら余裕できるからあとちょっとの辛抱かな」
「例の海外進出の件ですよね?上手く進んでるって噂ですよ」
「私からはお答え出来ません」
「流石秘書の鑑ですね〜!あ、そういえば副社長もうすぐ帰ってくるじゃないですか!…久々に2人でのんびり出来ますね」
「ちょっと、周りに聞こえたらどうするの!」
「大丈夫ですよ!みんな聞こえてないし、2人が付き合ってるなんて絶対思わないですよ!普段仕事以外全く話してないし、副社長基本喋らないじゃないですか!」
「もう、本当楽天的なんだから…」
2歳下のこの後輩は、今の若き社長の幼い頃からの幼馴染で、美雨の大学時代の後輩でもある。さっぱりとした性格で、今は専務付きの秘書である。
美雨の周りに口外できない秘密を知る数少ない人物でもあった。
(そういえば、今日帰国するって言ってたな…)
2週間前に海外に出張した恋人は、確か今日帰国の便で帰ってくるはずだ。仕事柄職場でも毎日会うので、こんなに顔を合わせないのは久しぶりだ。
スマホを見ると特に連絡も来てないが、恐らく帰国して2日は休みのはずだ。
(早めに切り上げて連絡してみるかな)
時計を見ると午後2時。最近は日付をまたぐまで仕事してばかりだったし、今日くらい早めに切り上げてもバチは当たらないだろう。
「さて、頑張ろ!」
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「新しい、秘書ですか?」
「来週から1人増えることになったんだ」
「また随分と中途半端な時期に増えるんですね」
仕事を粗方切り上げた頃に、社長から呼び出された美雨は、社長室にいた。この若くて秀麗な男は、自分の代になってから会社を海外進出の方向に舵取りをし、少しずつではあるが業績を挙げており、今各界から注目を集めている男だった。
「…実は、ちょっと訳ありでな」
「訳あり、とは?」
「俺の姉なんだよ。つまりは会長の娘」
「社長のお姉様ですか!…役員ではなく、秘書をされるんですか?」
「ゆくゆくは役員になるだろうが、現場をもっと見たいということと、会長の娘って分かったら特別扱いされるだろうから、嫌だって言ってな」
美雨は、ある経緯で社長の姉のことを人より詳しく知っている。社長である修平はそのことを知っているため、美雨に事情を話したのだった。
「篠田も知ってる通り、破天荒で人の下に就くような人間じゃないんだけど、なにぶん親父が甘くてな」
「社長、今会長って言い忘れてましたよ」
「…定時は過ぎてるだろ?見逃してくれ」
「注意してほしいって言ったのは社長ですよ?…まぁ、それはそうとして、今回私を呼んだのはお姉様のサポートをしてほしいということでよろしいですか?」
「察しが良くて助かるよ。…一応門倉付きで動かせたいと思うんだが、サポートしてもらえると助かる」
「副社長付きですか?」
「今まで篠田に実質門倉の分もお願いしてたからな。姉貴は英語はネイティブ並みだし、製薬の知識と顔は広いから門倉の傍につかせても問題ないだろう」
「そうですね」
副社長である門倉には別の秘書がついていたが、彼女はつい先月寿退社し、今のところ社長秘書の美雨が2人分動いている状態だった。
噂に聞く社長の姉は、優秀ということは端々で聞くため、美雨も正直助かったと思わずにいられなかった。
「ということで、門倉に話しといてくれ。どうせこの後会うんだろ?」
「…特に連絡してないので、会うかは分かりませんが。というか勤務時間外なんですけど」
「社長命令だ。久々の逢瀬にそんなに水差す内容じゃないだろ?」
「本当にお願いですから、そっとしておいて下さい」
些か後輩の顔が浮かばないでもなかったが、若い社長の命令を聞かないわけにもいかない。会う口実を作ってくれたと思うことにしよう。
「頼んだぞ。第一秘書殿」
別れ際のニヤリとした笑みに、してやられたと思わず笑いがこぼれた。