8話
その日、キーランは朝から調子が悪かった。何とか宇宙軍司令本部まで出勤したが、頭がぐらぐらして考えがまとまらず、オリガにいつも以上にツッコミを入れられる。何となく関節が痛いし、悪寒もある。
もしかして風邪? だとしたら何年振りだろうか。今日は早く帰って薬を飲んで寝よう。そう思っていたところで、さすがにオリガが尋ねてきた。
「提督、大丈夫ですか? 朝から具合が悪そうでしたか、今はもう顔が真っ赤ですけど」
はっきりきっぱり言われ、やっぱり熱かなぁと思うキーランだ。彼は苦笑すると言った。
「今日は早く寝ることにするよ」
「そうなさってください。……失礼します」
デスクの反対側からオリガが手を伸ばし、キーランの額と首元に触れる。熱を測っているのだろう。
「……かなり熱が高そうですけど。早退した方が良いのでは?」
「え? いや……家に帰っても誰もいないし」
「なるほど。家の中で遭難する、と言うやつですね」
「それ、誰に聞いたんだい?」
「母です」
やっぱり。オリガは、キーランが彼女の母の教え子であったと知ってから、たびたびヴィエラのようなことを言いだすようになった。根本的な性格は父親似のようだが、やはりヴィエラの娘でもあるんだな、と最近妙に感心している。
「ではせめて、医務室に行ってきた方がいいのでは? 終業まで休まれるなら、私が提督と一緒に帰りますけど」
確かに! 家の方向は同じであるが、それは年ごろの娘としてどうなのだろうか、と思う三十代のおじさんである。
「ありがたいと言えばありがたいけど……」
「誓って提督に何もしません。失礼を申し上げますが、提督を兄のように思っていますし」
切り返し方がヴィエラっぽい。まあ、彼女の娘なのだが。それにしても兄か。おそらく、キーランが彼女の母の教え子と知ったから、そんな気がするのだろう。どことなくセリフが男前なのも気になる。
でもまあ、医務室に行って風邪薬くらい処方してもらった方がいいか、とキーランは立ち上がる。と、めまいがしてその場に膝をついた。
「提督!」
抱えていた端末を放り出し、オリガがキーランの側に膝をつく。そこに、司令官室の扉が開いた。
「提督。これにサインを……何してんの」
マティアス・リンドロート少佐が返事も待たずに入ってきた。宇宙戦闘機部隊を率いる彼は、いぶかしげにその青い瞳を細めた。
「ああ、リンドロート隊長。お疲れ様です。提督、熱があるみたいなんです」
オリガがそう言うと、マティアスは「それは大変ですねぇ」と首をかしげた。
「抱えて行きましょうか」
「いや、遠慮する」
キーランはすぐさま答えた。部下に抱えられる司令官。どう考えても間抜けすぎる。頭はぼうっとしていたが、そこはすぐに反応した。
「ははぁ。そりゃあ、むさい部下よりも美人な副官に同行してもらう方が男としてはうれしいですよね」
役得ですね、とマティアス。ただのセクハラ発言のような気もするが、オリガが気にする様子を見せないので放っておくことにした。マティアスは貧乏くじを引きやすい男で、第八特殊機動艦隊所属の宇宙戦闘機部隊の隊長になった時点で、すでに貧乏くじだと言われている。
キーランはオリガに支えられながら立ち上がる。立ち上がってしまえば何とか自分で歩けそうだ。
「少佐、書類はそこに置いておいてくれ。急ぎ?」
「それほどでは」
「では、私が戻ってきてからね……」
そう言うと、オリガが書類を受け取り、採決待ちの箱に入れた。
結局、マティアスも医務室までついてきた。そのため、オリガが執務室に残ることになった。たぶん、その方が良い。
キーランは風邪だと診断された。そう言われれば、そうなのだろうな、と思うくらいには自覚症状がある。
「提督……帰って休まれた方がいいのでは? あ、一人で帰るのも危ないか」
マティアスが自己完結している。どうにもキーランは信用がない。
マティアスが執務室に残してきたオリガに端末で連絡を取っている。その間、キーランはベッドで点滴を受けていた。風邪だとわかったら、余計に頭がボーっとする。
「提督。しばらく医務室で寝ててください。ブルーベル大尉が荷物まとめて迎えに来てくれるそうですよ。よくできた副官ですね」
にやにやと面白そうに言うマティアスの言葉が頭を貫いた時、キーランは無理やり起き上がろうとした。そして、くらりとめまいがした。
「何やってんですか、あんた」
マティアスがキーランをベッドに押し戻す。医務室に連れてくるまでは許容範囲だが。
「送迎は副官の職務範囲を越えているのでは……?」
副官は司令官の秘書的立場であるのも確かだが、オリガの場合は少し違う。彼女はキーランに学び、司令官となるべく第八特殊機動艦隊に配属されたはずなのだ。こんなことをさせてもいいものか。
「まあ、本人がいいというのだから、甘えればいいと思いますけどねぇ。ブルーベル大尉なら、送り狼的なことにはならないでしょう」
「……僕が何かするっていう考えはないんだ?」
「提督、できるんですか?」
「……」
「でしょうね」
マティアスにも御見通しだった。まあ、オリガなら住んでいる場所も近いし、送ってくれるのなら助かる。うれしい。
だが、上司と部下と言う面を抜きにしても、未婚の若い娘が、独身男性の家について行くのはどうなのだろうか。まあ、言っても前科があるので後の祭りだが。
定時になる前に、オリガは医務室で寝ていたキーランを迎えに来た。彼の荷物を一式持っている。
「提督、帰りましょう。タクシーを呼びましたが、大丈夫ですか?」
「……ああ、ありがとう」
熱が上がっている気がする。オリガが支えてくれたが、あまり体重をかけ過ぎないように慎重に歩く。オリガが呼んだタクシーに乗り込み、そのまま官舎へ向かった。ちなみに、普段は徒歩か、バスだ。
何とか部屋までたどり着き、キーランはベッドに横たわった。軍服の上を脱いだだけの状態であり、ここまで連れてきてくれたオリガが言った。
「着替えたほうがいいと思いますが、お手伝いしますか?」
「……さすがにいいよ。送ってくれただけで十分。ありがとう、大尉」
「では、ご飯を作り置きしたいので、キッチンを使わせてください」
「大尉、私の話聞いてた?」
「ええ、もちろん」
生真面目な顔でうなずくオリガだが、その背後に彼女の実母の影がちらちらと見える。
「今の状態の提督を放っておくと、明日には干からびていますから。私の精神衛生上よろしくないので、せめて夕食くらいは用意させてください」
「……了解しました……」
キーランが承諾すると、オリガは微笑んでキッチンに向かった。その間にパジャマに着替えてベッドにもぐりこんだ彼は、すぐにオリガの悲鳴を聞くことになる。
「なんで冷蔵庫の中、何もないんですか!」
「……買い物行ってないからね……」
正直に答えると、オリガは即断して言った。
「わかりました。明日買って入れておきます! とりあえず、今一旦自宅に帰って食べるものと飲み物持ってきますから、鍵を開けておいてください」
「オートロックです……」
オリガの家も同じだから、知っているはずだ。たぶん、行って戻ってくるから開けてくれと言うことだろう。
「もう、私の網膜情報を登録していいですか?」
「君は私の何なの……」
この官舎の鍵は、暗証番号と網膜認証だ。当然だが、キーラン宅にはキーランの網膜しか登録していない。
オリガも冗談だったようで、「寝ててくださいね、開けてくださいね」と言って一度帰宅した。きっかり三十分後に戻ってきた。本当に看護して行くようだ。キーランとしては、もう反対する気力もない。何とか玄関は開けたが、熱を測ったら三十九度あった。久々にこんなに熱が出た。
額に氷嚢が乗せられ、布団が直される。そこでキーランは目を覚ました。
「目が覚めましたか? 大丈夫ですか?」
「……だるい……」
「……まだ熱が高いですね」
首元に触れるオリガの手が冷たく気持ちがいい。オリガが顔を覗き込んできた。
「何か食べられますか?」
「……いらない」
「じゃあ、せめて薬を飲んでください。水分補給もしないと。すごい汗ですよ」
慣れた様子でオリガはキーランの看病をしていた。薬を口に突っ込まれ、水分を取らされる。
「うう……ごめん、大尉……一人で寝てるから大丈夫……」
もう夜だ。さすがに帰らないわけにはいかないらしいオリガは、心配そうにしながらもキーランに言った。
「……申し訳ありませんが、帰ることにします。明日の朝、一度様子を見に来るので玄関開けてください。それと、おなかがすいたら、カボチャのポタージュとミルク粥がキッチンにありますから、温めて食べてください。水分はここに置いておきます」
と、彼女はペットボトルに入ったスポーツドリンクを枕元のテーブルに置いた。
「何かあったら遠慮なく言ってください。すぐに来ます」
頼もしい。男前すぎる。やはり、彼女はヴィエラ・リーシン教授の娘で、キール・リーシン中将の娘でもあるのだ。
そう言ってオリガは帰宅した。世話をしてもらうのも申し訳ないが、一人になったらなったで不安にもなる。一人の間に何かあったらどうしよう。体調が悪いと、そんなことを考えてしまうのだ。
そんな不安もあったが、目を閉じればすぐに眠りに落ちた。
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